「不思議な夏」 第一章~第三章
庄内川を渡ったぎりぎり名古屋市の北区にアパートを借りて住んでいる。近くを走る名鉄電車で市内のレンタルショップへ通っていた。毎週水曜日は自分の定休にしていたから、逢う日にちを6月3日に約束した。美容院からの帰り、軽く昼食を済ませ、ローンがしっかり残っているプリウスで大阪に向かった。曇り空からは今にも雨が降り出しそうではあったが、大阪に着くまで天気は崩れなかった。車を森之宮付近に駐車して、歩いて指定された野外音楽場の前の噴水に歩き始めた。まだ少し早い時間だが、行くところもなかったので腰掛けて時間が来るのを待つことにした。天気の崩れが気になるのか道行く人は足早に過ぎてゆく。午後6時を少し前にして雨は降り出してきた。人影まばらな公園の中は雨音だけが薄暮の景色の中で耳についた。
アイポッドから流れるロック音楽はうっとうしい天気を跳ね返すように軽快に貴雄の身体をゆすっていた。時計を見た。もう6時を少し回っている。辺りを見渡すが、傘を差してこちらに向かってくる人影はない。30分過ぎた。まだ人影は見当たらない。仕方なくメールを送ってみた。送信が出来ない。電話をかけてみた。「電波の届かないところに・・・」とアナウンスされた。どういうことなんだろう、よく理解できなかった。やがて1時間が過ぎ暗くなった公園内は人影が全く無くなってしまった。おまけに雨が少しずつ強くなり始めていた。足元はもうずぶぬれになっている。
万が一と思い、園内を一周することにした。思い足取りで明るく照らされた大阪城を見ながら堀の淵を歩く。誰にもすれ違わない。これはすっぽかされた、と気付き始めていたその瞬間!ドボン!と堀に何かが落ちた音が聞こえた。なんだろう、とその付近まで足を運んで、様子を伺った。何もない・・・気のせいかと思い引き返そうとした時、ガサガサ!と言う音が聞こえた。もう一度引き返して、慎重に辺りを見渡した。
なんということだ!着物を着た女性がずぶぬれになって倒れているではないか。走り寄って、声を掛けてみた。
「大丈夫ですか?しっかりして下さい!」
返事はなかった。息はしているようなので救急車を呼ばないと、と思い、傘を捨てて、ずぶぬれになりながら、女性を抱えて、音楽堂まで歩き、携帯で救急車を呼んだ。直ぐにサイレンの音が聞こえて、隊員が駆けつけてきた。
「どうしました?電話を掛けられたのはあなたですか?」
「はい、そうです。この女性がそちらの淵で倒れていましたので、慌てて連絡しました」
隊員は脈を診て息を見て、
「大丈夫のようですね。病院へ搬送しますが、身元の解るようなものを持たれていないので、宜しかったらご同行戴けませんか?」
「解りました。見つけた以上責任がありますよね?」
「そういう訳ではありませんが、お話をお聞きしたいと言うことで・・・」
初めて救急車に乗せてもらった。なんだか嫌な予感がしてくるのを抑え切れなかった。勤め先に、明日は都合で休むと電話を入れた。
救急車は上本町の大阪赤十字病院に着いた。出てきた看護士にこちらでお待ちください、と案内されて救急搬入口の隣にある待合室に入った。雨降りなので事故が数件あったのだろうか、警察官が来て事情を聞いていたりしていた。これは少し待たされるなあ、と覚悟を決めて、再びアイポッドを耳にした。何時間過ぎただろうか、もう警察官も居なくなり、待合室は自分一人だけになっていた。
「すみません、お連れの方でいらっしゃいますね?」そう聞かれたので、
「連れではありません。通りがかりの者なんですけど・・・」
「そうですか、実は困りまして・・・あのう、話が通じないと言いますか、意味不明な事をお話されますので・・・ひょっとしてそういうことをご存知なのかと思いましてお聞きしましたので、気を悪くなさらないで下さい」
「構いませんよ。もう会えるんですか?」
「大丈夫ですよ。あなたが助けて頂いた人ですとは申し上げてありますので」
「そうですか、それはご親切に。では、お邪魔します」
貴雄は病室に入った。先ほどの女性は着物を脱がされ、病院が用意したガーゼの寝巻きに着替えさせられてベッドで横になっていた。すっかり顔色も良くなっているようだった。完全に乾いていない髪は胸まである長さで、顔立ちも幼く自分より若いと思った。看護士が私を紹介した。
「先ほどお話した、助けて頂いた男性ですよ」
「これはかたじけなく思います。私には何がどうなっておるのやらわかり申しませぬ。ここはどこで、そなたはどういうお方なのですか?」
看護士が不思議な顔をするのがわかった。話し方が変だからである。
「私の名前は貴雄、木下貴雄と言います。大阪城の堀に落ちたあなたを助けました。名前はなんと言うのですか?」
「名前ですか・・・志野と言います。御礼が遅れました。此度はなんとお礼申し上げてよいのか解りませぬ。このとおりです」志野と名乗った女性はその場で深く頭を下げた。
「元気になってよかった。倒れていたときには死んでいるのかと驚かされましたから」
「そうでしたか・・・私は不思議なものを見ました。渦巻いている雲の中心に開いている目のようなものににらまれ、吸い込まれるように身を投げました」
「えっ?身を投げたって言いましたか?」
「はい、申しました。覚悟を決めて天守閣から飛び降りたのです」
「天守閣?大阪城の?」
「そうです。敵に攻められて逃げ道を失ったものですから・・・徳川方の雑兵に捕らえられて辱めを受けるぐらいなら、身投げして死のうと、飛び降りたのです」
「徳川方・・・雑兵・・・」
なるほど意味不明な事を言っている。何度聞いても同じ事しか言わないと、看護士は話してくれた。話の途中だったが、担当医から呼ばれたので、席を外した。
「少し待っていて下さい。逃げはしません。安心して下さい。先生と話をしてきますから」
「先生?先ほど私を看て頂いた女性の事ですか?」
「そうです。私には助けた責任がありますから、お話を聞いてきます」
「そうですか・・・あなた様はお味方なのですね?ここに居ても大丈夫なのですか?」
「味方・・・そうなるようです。誰もあなたを傷つけるような事はしませんので、安心して待っていて下さい」
志野は信じることにした。いまここに居る自分の周りで頼れるのは彼一人だけだと、感じていたからだ。それは命を助けた恩を感じている事に加え、自分の話しを真剣に聞いてくれる態度に好感が持てたからであった。
「木下さんと言われましたね。担当医の宮前理香と言います。率直に申しまして、精神鑑定をした方が良いと思われるのですが、賛成して頂けますか?」
「精神鑑定?気がふれていると言われるのですか?」
自分にはそうは見えないと思ったからだ。
「どうやら、堀に落ちたときのショックか、自殺しようという気持ちまで思いつめたせいなのか解りませんが、被害妄想のような言葉を言われていましたので、一度鑑定を受けて診断したいと思います」
「そうですか、反対はしませんが、私には正常に見えます。事情はよく解りませんが、今夜話を聴いてやりたいと思います。ベッドの傍に居てやっても構いませんか?」
作品名:「不思議な夏」 第一章~第三章 作家名:てっしゅう