和解
ふと、サチが目覚めたらと考えた。叔母がどんなになだめても自分を探すだろう。置き去りに去れたと知ったら……。考えるのが恐ろしかった。そのとき、駅のドアが開いた。春子ははっとした。サチだったらどうしよう。足音が近づく。サチではない。ゆっくりと後ろを振り向いた。手ぬぐい被り、大きな荷を背負った、顔が皺だらけの老婆だった。
到着五分前になった。春子はゆっくりと駅を出た。一年経ったら、この駅に来て、サチを迎に来よう。“それまで、サチ、待っていて”と心の中で何度も呟いた。
列車がゆっくりと入ってきた。春子は列車に乗った。列車の出発を告げる汽笛が鳴った。
窓の外を眺めていたら、朝靄の中で小さな子が走ってくるのを見つけた。見る見るうちに近づいてくる。
「母ちゃん、母ちゃん」と泣きながら叫んでいる。サチだった。視線があった。胸が張り裂けそうな思いになった。降りなければと思った時、列車はゆっくりと走った。
車窓を開けて、サチと叫ぼうとしたとき、走ってついてこようとするサチの手を叔母が掴んだ。二人の姿が小さくなっていっていた。桜の花びらが一枚、どこからもなく車窓の中に入ってきた。春子は手にした。
東京に着くと、すぐに働いた。けれど、自分が食って生きるのが精一杯だった。
手紙を書いた。叔母からの返事は三回か四回に一回。どれも短かった。一年という約束だったが、一年が過ぎても、決まった仕事を見つけられず、“もう一年待ってほしい”と手紙を書いた。
サチを迎えに行くまでは、恋や余計なことを一切しないと決めていた。が、その決意も、一年が過ぎ、二年が過ぎいくうちに薄らいでいった。
東京に来て三年目のことである。春子の前に耕治が現れた。同じ安アパートに引っ越ししてきたのだ。彼も一度結婚に失敗していた。同じように故郷を捨て、東京で働いていた。
ふとしたきっかけで、昔話をしているうちに、同じような境遇で知り、互いに何か惹かれるものを感じた。やがて一緒に暮らすようになったのである。淡い幸せだった。ただ、そこにサチがいなかった。いないことに対する、春子の悲しみは、決して消えることはなかった。時折、夜、春子が泣いているときがあった。耕治はそれに気づいたが、気づかないかないふりをしていた。知らないふりをする優しさもあることを知っていたからである。
耕治と一緒になっても、春子は相変わらず会いに行けなかった。会いたいという気持ちは幾らでもあったけれど、二人で働いても食っていくだけで精いっぱいの生活で、とても一緒に暮らせるような状況ではなかったのである。
春子が東京に出てきて十年目の冬のことである。
春子は具合が悪くなり入院した。
医者は「かなり、がんは進行していますよ。本当はずっと前から症状が出ていたはずです。痛みもあったはずなのに、なぜ、もっと来なかったのか?」と耕治を責めるように言った。耕治は思い当たる節があった。
日増しに春子は衰えていった。
入院して一カ月が過ぎた、ある日のこと。春子は耕治に向って「私はもう少しで終わるような気がする」と悲しそうにほほ笑んだ。耕治はそれが堪らなく愛しいと思って彼女の手を強く握った。
「お願いがあるの」と春子は呟くように言った。
「何だ?」
春子は思い切って娘がいることを打ち明けた。そして死んだら娘に通帳を渡してほしいと手渡した。耕治はさほど驚かなかった。
「やっぱり、知っていたんだ」と春子は微笑んだ。
互いに一度結婚に失敗した同士、互いの過去に触れないようにした。そして通帳とか別々にしていた。春子がサチという名義の通帳を作ってあることをずっと前から知っていた。春子は女らしいことは何もしなかった。洋服も安物、化粧もろくすっぽせず、わずかばかりの余った金をひたすら娘のためにコツコツと貯めていたのである。
「娘に会わないのか?」と耕治は聞いた。
春子の頬に一筋の涙が流れた。首を微かに振った。耕治には、その気持ちが痛いほど分かった。彼にも同じように離婚し別れた子どもがいたからである。
「に打ち明けられなくてごめんない。娘のことは片時も忘れたことはありませんでした。何度会いに行こうと思ったことか……でも、ある日、叔母から、“引き取りに来ないなら、これからは、私が自分の娘として育てます。だから、会いに来ないで”という手紙が着たんです。それからいろいろと悩んだけど、自分が育てよりも幸せになれるんじゃないかと思ったんです。そんなとき、あなたと出会いました……」
「俺にもっと甲斐性があったなら、一緒に暮せたのに……」と耕治は涙ぐんでいた。
サチのもとに手紙が届いた。耕治が書いたものである。春子が重い病気にかかっていて見舞いにきてほしいと書いてあった。サチは無視した。どこから調べたのか、今度は電話がかかってきたが、それも無視した。
春になった。
耕治は一度、春子の娘を訪ねることを決心した。
信州に着いたとき、雨が降っていた。
耕治は春子の叔母の家を訪ねたとき、サチが出迎えた。驚くほど大人びた雰囲気に耕治は驚いた。
耕治は春子の気持ちと容態を丁寧に伝えた。サチと叔母の二人は黙って聞いた。そして耕治はサチに向かって「会わなくていいですか?」と言った。
サチは「いいです」とそっけなく言った。「それに、他人のあなたに言われる筋合いのものではないと思います」
耕治の顔が苦悩でゆがんだ。サチはかわいそうだと思う反面、心のどこかで小気味のよいものを認めざるをえなかった。ささやかな復讐なのだ。母親の再婚相手に何の恨みはないけれど、母と再婚した以上、一緒に苦しみも負わなければならない。
サチは幕を引いたつもりだった。だが、容易に帰ろうとしない。
いつしか雨が止んでいた。
「雨が止んだみたい」とサチは窓の外を見た。
「帰っていただけないのかしら?」
「帰ります。そして、もう、あなたに会うことはないかもしれません。けれど、これだけは言わないといけない。春子は、いや、あなたのお母さんは、あなたにとても会いたがっている」
サチは苛立ちの声を込めて、「その話は何度も聞きました。けれど、気持ちの整理がつかないのです」
耕治は「これ預かっています」と預金通帳を差し出した。
「これは?」とサチは聞いた。
「お母さんが、あなたのためにコツコツと貯めたお金です」
サチは通帳を手にとった。手が震えるのを必死に堪えているのは、耕治の目にも分かった。
「こんなもの、いりません。持って帰ってください」
「よく聞いてください。お母さんはとても思い病で病院に入っています。大変な状況です。今年の冬を越せないかもしれない」
サチは耳を疑った。
「言うことに事欠いて、冗談は言わないでよ」
耕治は真剣なまなざしでサチを見た。
「こんな話を冗談で言えますか?」と耕治は言って立った。
冗談ではないことは分かっていたものの、サチはどうすることもできなかった。すると、ずっと沈黙していた叔母が「行きなさい。会ってあげなさい。サチ、あなたがずっと会いたがっていたことを知らないと思っているの?」と言った。
気丈で大人びていたサチが突然泣き出した。その泣き顔はまるで子どもだった。