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和解

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『和解』


 父親から、春に生まれたから春子とつけたと、小学校のときに聞かされた。
「でも春はいいぞ、花がいっぱい咲くから」と満願の笑みを浮かべた。
安易なつけ方であったが、春子はそんな名が気にいっていた。その頃は、家は貧しかったけれど、春子は幸せだった。

 父は土木作業員だった。いい男だったが、バクチが好きで、あちこちで借金をこしらえた。そのせいで、母は父に愛想をつかして、春子が中学に上がる前に出ていった。
「母さんは俺たちを棄てて出ていった」という父の言葉が信じられず、母を何度も泣きながら捜した。いつか、きっと帰ってくると信じていた。

 春子の心の支えは、机の引出しの奥にしまってあった一枚の写真。母と仲良く並んで写っている。その写真を眺めては、昔を思い出し涙を流した。そんなある日、父が偶然、それを見つけて、
「お前と俺を棄てて出ていったんだ。こんな写真を捨ててしまえ!」と強引に取りあげ、どこかに捨てた。心の中がぽっかり空いた。言いようのない寂しさに襲われた。父親もまた寂しかったに違いないが、以前よりもバクチにのめり込み、借金が雪だるま式に増えていった。借金取りに怯えながら、生活をしていた。借金が膨れ上がり、故郷を捨て、あちこちと転々としたが、その度に借金取りが追っかけてきた。

 春子は中学を卒業すると、父親のもとを離れ、温泉街の旅館に住み込みで働いた。
十年が過ぎた春のこと。ヒサシという名の若者に遭った。彼は近所の小さな工場で働いていた。何の才覚もなかったが、真面目な男だった。小心者で、酒はたしなむ程度だった。バクチはやらなかった。春子は実直そうな彼に惹かれ結婚した。二人の間に子どもができた。女の子だった。春子は一番幸せだと感じた。春子はサチ(幸)と名づけた。自分の分も含めてもっと幸せになって欲しかったから。

 ヒサシが酒に溺れるようになったのは、ちょっとした出来事がきっかけだった。大したことではなかったが、会社でちょっとした失敗してしまい、それがきっかりとなり酒におぼれるようになってしまったのである。酒は彼を別人に変えた。あれこれと難癖をつけ、気に食わないことがあると、あたかも鬼のような形相で春子を殴るようになった。子どもも小さくて、行くあてもこれとなかった春子は、夫の暴力にじっと耐え忍んだ。はじめの頃は、何度か抵抗を試みたこともあったが、直ぐにそれが逆効果であることを悟った。家に帰ると直ぐに酒を飲んだ。しばらくすると、春子を睨み「その目は何だ! 何て顔をしているんだ」と夫が難癖をつけて殴った。サチはまだ小さいから、手を出さなかったが、いつか手を出すのではないかと春子は恐れた。サチは小学校を上がる頃から父親を嫌うようになり、そして冷ややかな目で父親を見るようになった。春子はなるべく父親の目に触れないようにさせた。
春子は夜を恐れた。恐ろしい夜は永遠に続く苦しみのように思えた。何度、酒を飲んで眠る夫の首を絞めるか、それとも自分が夫を捨てて遠くへ行くかを思い悩んだ。

 サチが小学校にあがった年の夏のある日のことだった。
 家に帰ってきたヒサシは、いつのものように、テレビを見ながら、一人酒を始めた。酔いが回ると、春子を呼びつけ、暴力を振るった。
 突然、雷とともに驟雨が降ってきた。雷が落ちて、停電が起こった。しかし、ヒサシは何事もなかったように平然とした。その時、隣の部屋に寝ているはずのサチが起きてきた。春子が何かの拍子で酒を入ったコップを倒してしまった。ヒサシは怒った。春子を倒し跨りながら顔を平手で打っていた。雷の閃光が驟雨でざわめく闇を引き裂いた。それと同時に一瞬、部屋の中が明るくなり、ヒサシの恐ろしい形相があらわとなった。娘と視線が合った。サチは泣きながら、「怖いよ!」と叫んだ。いつもなら黙ってうずくまっているのに。その一言がヒサシの癇に障ったらしく、サチのところに飛んで殴ろうした。
「なんだ! その目は! 娘のくせに父ちゃんを化け物のように見やがって!」とすさまじい剣幕で怒った。
 春子はすぐさま娘を庇おうした。が、浩二はその手を振り払い、春子の髪を掴んだ。
「なんだ、てめえ! お前の教えが悪いから、こうなるんだ!」
ヒサシは容赦なく殴った。春子の朦朧としてきた。春子は薄れる意識の中で、死を選ぶか、それともこの家を出るかを考えた。
どれほど、時間が経ったか。遠くの方から何かが叫ぶ。娘のサチだった。泣きながら「母ちゃん! 母ちゃん!」と叫ぶ。小さな手で身体をゆすっている。その小さな手を握った。よく見れば、泣いたのであろう、小さな瞳が赤くなっていた。
 悲しませてはいけない。悲しい顔ばかりしていては幸せが逃げてしまう。この子は自分の分まで幸せになってもらいたい。そのためにサチという名をつけた。地獄のような日々から抜け出さなければ、この子は暗い人生を背負うことになる。そう思った春子は夫のもとを離れることを決意する。

 翌日、夜明けに眠っているサチを背負い、そっと家を出た。列車に乗って叔母の家に行った。
「どこへ行くの?」とサチは不安そうに尋ねる。
「すぐ近くのところ?」と娘の髪を撫でた。

 叔母に事情を話した。叔母は同情してくれたが、困惑の色を隠さなかった。
「一年だけこのサチを預かってください」と何度も何度も頭を下げ懇願した。
「どうしても、家に戻ることはないのかね?」と叔母は言った。
うなずいた春子の目に涙がこぼれてきた。
 叔母は黙ったままだ。自分の家のことを考えた。決して豊かなわけではない。食べ盛りの子どもが二人もいる。そんな状況で安易に引き受けるとは言えなかった。春子の目を見た。その目に何か鬼気に迫るものがあった。断ったら、死ぬのだろうかとふと思った。
叔母の心は揺れた。春子にこれといった能力が無いことは知っていた。そんな女ができる仕事は少ない。ましては、幼い子を背負って働けるわけがなかった。
「一年だけなら」と重い口を開くと、春子は叔母の手を握りしめ深く頭を垂れた。
「東京で働き口を見つけたら、きっとサチを迎えにきます」
 その言葉に嘘はなかった。少なくともその時は。

「もう、一日だけ、一緒にいさせてください。次の日は東京に行きます」と叔母に頼んだ。
 サチとゆっくり過ごした。サチはとても嬉しそうな顔をした。
 翌朝、寝ているサチに気づかれないように、早朝の出ることにした。直ぐに戻る。別れの言葉はかえって辛くなる。何度も自分にそう言い聞かせて出た。
 朝霧が出ていた。何度も振り返りながら叔母の家を後にした。駅まで歩いて十分位の距離、普通なら何でもない距離だが、春子にとってそれは長い道だった。何度も振り返った。振り返るたびに涙がこぼれてきた。そして、何度思い直そうと考えたことか。
 
 小さな駅についた。駅の傍に桜の木があった。早咲きの桜で花をついていた。風もないのに、時折、花びらが落ちる。
 待合室で待った。誰もいない。壁に時計がある。時計の針は刻々と列車の到着が近づいていることを教えてくれた。  
作品名:和解 作家名:楡井英夫