携帯彼氏6
「………こ、これが痛みというものなんですね。とっても、その、痛かったです」
蘭さまの頭は固いんですね、なんて言いながら、ヒロは泣いてくしゃくしゃになった顔を更にくしゃくしゃにして笑いかけてきた。
「えへへ、蘭さま、もう苦しくないんですね。よかった」
きったねえ顔、そう言って頭を叩いてやろうと思ったのに、なんだかできなかった。俺の手を離そうとしないせいで顔も体も間近に過ぎる。至近距離で見れば、男の癖に白い肌も、ふとすると感じる体温も、なんだか妙に照れくさかった。無理やり手を離して、事務所のデスクの上にあったティッシュを掴んで奴の顔に押しつけてやったら、ヒロは大人しくそいつを受け取って顔をごしごし擦る。目が合うと、これ以上嬉しいことは無いっていうくらいに笑いかけてくる。
あどけない笑顔を見ていられない。俺は微妙に奴の目から顔を逸らした。
おかしいな。一緒に暮らしていて、しかも昨日の夜なんかは同じベッドで寝ていたのに、なんでこんな気持ちになるんだろう。今までなんとも思っていなかった、だってこいつは所詮機械なんだから。
「蘭さまが苦しくなったら、どうかいつでもどこでも私を使ってください。多少乱暴に使っていただいても壊れませんから!」
「お前を使う、ってったって、携帯だろ、お前」
「はいっ、ですが今は人間の形ですので、他にも色々できます!ご命令くださいっ」
「………………」
色々。まあ、そりゃあできるけど、こいつにして欲しいことなんて思いつかない。携帯なら役立ってくれるものの、人間の姿じゃ世間知らずの物知らず、はっきりいって俺にとってはとんだお荷物だってのに、本人はまったくそいつをわかっていないようだ。琥珀に似た大きな瞳が、じっと俺を見つめている。
俺がため息をついたって、妙に嬉しそうだ。俺の幸せが自分の幸せ、奴の顔に書いてある。それが妙に気恥ずかしい。なんだろう、こんな気持ちになったことはない。なんというかその、むずむずしてむずがゆくて、落ちつかないな、もう。
「わかった。じゃあ、さっさと戻ってバックヤードを手伝って来い。珠紀が待ってる。俺も店に戻るから」
「はいっ、かしこまりました!メールや着信がありましたら、すぐにお知らせしますね!」
単純な俺の携帯は、すっくと立ち上がると無駄に長い足で廊下を走って行った。一度だけ振り返り、俺が後ろを歩いているのを見るとにこりと笑う。
どこまでも俺を疑うことの無いその素直さが、なんだか無性に腹立たしくて、くすぐったくて、恥ずかしくて、俺はヒロに顔を見られないように下を向いて歩いた。
ホールに戻ろうとすれば、なぜか店長が俺の袖を掴み、クローク脇の影へとひっぱりこんだ。なんだなんだ、事務所で待てとか言っておきながらなんでこんな物陰に引っ張り込むんだ?
「蘭ちゃん。大事な話があるんだけど」
店長の顔は真剣だ。カーテンで仕切られた狭い場所で、俺たちはこそこそと小声で話した。こんな場所ででかい声で話したら、店の中まで筒抜けになっちまう。
「伺いますけど、なんでここで?事務所で話したいことがあったんじゃないですか?」
「うーん、そうなんだけど。あの時間になると大抵オーナーから電話がかかってくるんだよねえ………」
「………逃げましたね、店長。代わりに優飛さんが叱責くらってましたよ」
「ありゃあ、悪いことしたなあ。後で謝っておかなきゃ……いやいや、そうじゃなくて、蘭ちゃんに話があるのよ」
「だからなんですかって」
「あのねえ……ヒロちゃんを、フロアに出して欲しいっていうお客がいるんだよね。それを一応、蘭ちゃんに話しておこうと思って」
「はあ?あいつを?」
「見習いを一日でフロアに出すっていうのは前例がないんだけど、優飛くんも賛成してくれたし、僕も冒険してみようと思うのね。彼は今までに無いタイプだし、この店にも刺激になると思うし」
店長はなぜか頬を染めながら、どことなく嬉しそうな顔をしている。待て待て待て!何でそういう事になってるんだ?
「ゆ、優飛が!なんで?」
しかもあの優飛が、なんでまた見習いバーテンのヒロのことなんか気にかけてるんだ?殆ど口も利いてないくせに!
「だ、ダメです!あいつにはホストなんて務まりません!バーテンでさえ珠紀の使いっ走りしかできないんですよ!」
頭も悪いし口の利き方も知らないし世間知らずだし、とにかくダメですと俺は口走った……つまり、興奮のあまりちょっとでかい声でわめいてしまったのだ。
「あいつはお前が思ってるほど頭は悪くないと思うんだがな」
カーテンをひょいとかき分けて、端正な顔がクロークの中を覗き込んだ。くそっ、何をしれっとした顔をしてやがるんだ、この男は。
「優飛さんはわかってないんですよ!」
「へえ、じゃあお前はアイツのことを全部わかってるのか。まるで所有物だな」
所有物も何も、あれは俺の携帯だ……と口にしかけて俺は慌てて言葉を飲み込んだ。こんな事を口にしたら、頭がおかしい奴だと思われちまう。
「ダメならまたバーテンに戻りゃいいだけの話じゃねえか。お前、相当な過保護だぜ、わかってるか?箱入り息子とおっかさんみたいだ」
確かにそうだけど、だけどあいつはただの男じゃないんだ。これをどうやって優飛と店長に理解してもらえるだろう。む、無理か、無理だよな……
「と、とにかくあいつは世間知らずなんです。何がおきても俺はフォローしませんよ!」
「いいよ、じゃあ俺がアイツのミスはカバーしてやるさ」
ナンバーワンが新人のカバーだって?ありえない、普通は逆だろう?ナンバーワンを立てるのが下の仕事じゃねえか。店長もどうかしてるけど、こいつもどうかしてる。
啖呵を切った手前、俺はヒロに近づく事もできなかった。俺がフロアに出ている間に、店長と優飛はバーカウンターの向こうに座って不器用な手つきで氷を砕いていたヒロを呼び出していた。二人が大きな男の両腕を掴んでロッカールームに引っ張り込んでいく姿が目の端にちらりと映ったけど、客をほっぽり出して追いかけるわけにもいかない。畜生。
「ねえ、蘭ちゃん……今日はなんだか、上の空なのね」
ここ数回通って来てくれている客が恨めしそうな顔をして顔を見上げていて、俺は慌てて笑顔で振り返った。
「そう見える?ちょっとなんだか、緊張しちゃってるみたいだ。君との距離が近くて」
「やだあ、この前も隣に座ってたのに……」
けらけらと笑いながらも満更じゃない顔をして、客は座りなおして俺との距離を詰める。彼女のつけている香水が強くてむせそうになるのを、俺はぐっと堪えた。うう、危ない。女と話している時に他に注意を移すなんて、ホスト失格だ。
「ね、今日お店が終わるのって何時なの?その後、飲みに行かない?」
恐らくキャバ嬢だろう、彼女は酒に強く、それに朝までこの店にいるつもりらしかった。本当ならいい客だ、夜の世界のことをよく理解しているから遊び方も上手だし、ホストの成績に繋がるとわかっていて高いボトルも入れてくれる。こういう女は手放しちゃいけない。
頭ではわかっているんだけど、どうしても意識がロッカールームに飛んじまう。くそ、三人で入ったままなかなか出てこないじゃないか。ヒロは一体どうしてるんだ。