ノブ ・・第3部
「ごめん、余計なモノまで持ち込んでさ、私・・いい気になってたね」
「彼女さん、きっと凄く嫌な気分だったと思うわ」
「そりゃそうよね、好きな人が待ってるって思った部屋に違う女がいておまけに着替え持ってたらさ」
そう言ってリエ坊は、上を向いて自嘲気味に笑った。
「あ、私って最悪の女なんだって、思い知ったの、あの時ね」
「だから暫く戻れなかったのよ、学生控室に」
「シンに会わす顔が無くて、どう言ったらいいのかも分からなくてさ・・」
「だからあんなに時間かかったんだ。なかなか帰って来なかったよね」
「うん、近所の喫茶店でコーヒー飲んでたの、少し頭冷やさなきゃって思って」
コーヒー、苦かった・・と無理やりに笑ったリエ坊の頬を、また一筋の涙が転がり落ちた。
「リエさん・・」
「有難う、シン」
「私、少し分かったよ、人を好きになるって本当に素敵な事なんだね」
「でもさ、その相手を間違えちゃうと・・・」
そこまで言って、リエ坊は言葉を飲みこんだ。
「シンが言ってくれた一言、私、宝物にする」
「こんな私でもそう言ってくれる人がいたんだって、ちょっとこれからは自信持ってもいいよね?」
リエ坊の笑顔は、やはり痛々しかった。
「バンドは・・・」
「え?」
「シンに任せるから」
「・・・どういう事?」
「せっかく始めたドラムだけどさ、シンの気が進まなかったらもういいよ」
「それって、やめちゃうって事?」
「ティア ドロップス、いい名前だけど」
「うん」
「アイツもあんなだし、彼女さんの気持ち考えたらさ、いくら続けていいって言ってはくれても・・」
「絶対にいい気持ちはしないと思うんだ、同じ女として」
「そう・・なのかな」
「うん、そうだと思うよ、好きな人が浮気相手と・・・バレちゃった後も同じバンドやってるなんてね」
「・・・・」
「それか・・」
「なに?」
試してるのかもね、シンの事・・とリエ坊が続けた。
「試すって、恭子が?」
「うん」
一瞬ボクは何を言われてるのか分からなかった。
「バレちゃった後でもシンと私が会う事を認めたって事はさ・・」
「・・・うん」
「彼女さん、シンの本当の気持ちを試してるんじゃない?」
「まだ夏休みは続くでしょ、彼女さん・・九州だっけ?きっと帰るんでしょ?」
「うん、だと思うけど」
「それなのにバンドはやってもいいなんて、凄い度胸だよ。自信があるのか・・・」
「自分がいなくなって、またシンが私と付き合うのかどうか試してるのかもね、シンの気持ちを」
そういう事か・・・やっぱりボクは間抜けらしい。
リエ坊に言われて初めて、試すって言葉の意味を理解出来たのだから。
暫く言葉を失ったボクを見つめて、リエ坊が言った。
「ちょっと考えようか、ね?シン」
「今すぐどうこうなんて決められないんでしょ?」
「うん、オレ・・どうしたらいいんだろう」
どっちにしても・・・リエ坊は煙草に火を点けて、ゆっくりと煙を吐いて言った。
「アイツが退院して、シンも傷が治ってからじゃないと話にならないじゃない?」
「それはそうだけど・・」
「それまでちょっと私も頭冷やすよ」
「・・・リエさん」
「さ、ぼちぼちリカバリー行こうか。アイツの顔もう一回見て帰ろう?」
そう言うなりリエ坊は、煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった。
「あ、そうか、アイツにもバレちゃってるんだよね、私達・・・間抜けだね、ほんと」
本当に・・と苦笑しながら立ち上がったボクを、リエ坊がいきなり抱きしめた。
「嫌な思いさせてごめんなさい・・」
「リエさん」
「でもね、嬉しかったの。こんな私を可愛いって言って愛してくれて」
「好きって言われて、本当に幸せだった・・・」
「これで最後・・もう言わないから、もう困らせないから」
「もう一回だけ言ってくれる?」
リエさん・・・ボクはリエ坊の背中に手を回してきつく抱いて、言った。
「好きだよ、リエ」
「・・・有難う、シン」
「さ、行こうか!」ボクを見上げて微笑んだリエ坊は、喫煙コーナーを出て行った。
ボクのTシャツの左肩がほんの少しだけ、濡れた。
リカバリ室のドアを開けて中に入ろうとしたリエ坊が、急に立ち止まった。
「どうしたの?」
「うん・・・」
リエ坊の肩越しにタカダのベッドに目をやると、ベッドを囲む様にキヨさんとタカダのご両親がベンチに座っていた。
振り返ったお父さんがリエ坊に気付き、こちらに来た。
「お見舞い、有難う。お陰で善明も随分と回復しているよ」
「はい、私達も先程・・・」
「何だ、そうだったのか」
すまんが・・と小声で促されて、お父さんが廊下に出てきてドアを閉めた。
「今、善明と清美さんと私らでちょっと混み入った話をしとるんでな、申し訳ないが今日の所はこれで・・・」
「はい、分かりました。私達は引き上げます」
「すまんね」
「あ、おじさん・・」ボクが会釈して失礼しようとした時、リエ坊が言った。
「なんだね?」
「あの・・・まだ勘当は解けないんですか?」
「勘当?」
「はい」
「そんなもん、説教のついでに言っただけだよ」
「善明はかなりのバカ者だが大事な息子だ」お父さんは笑って言った。
「ただ、清美さんとの事はキチンとせにゃいかんだろ・・」
「じゃ、失礼するよ」とリカバリ室に入っていった。
もう知ってるんだね、赤ちゃんの事・・・とリエ坊が呟いた。
「うん、そんな雰囲気だった」
「うまくいくといいね・・・」
「大丈夫じゃない?おじさん笑ってたし」
「うん、おじさんはいいんだけど、おばさんよ、問題は」
「そんなに、難しいの?」
「もうプライドの塊みたいな人だもん」
「そうなんだ」とボクは昨日の強烈な印象を思い出していた。
確かに眼光鋭い人だったもんな。
「帰ろうか・・・」
「うん」
ボクはエレベーターの下へのボタンを押した。
暫くしてチン!と音がして扉が開き、ボクらは乗り込んだ。
エレベーターの中は2人切りだったが、リエ坊もボクも無言だった。
一階に着いて、広い待ち合いロビーを抜けて玄関に出た。
建物の中から外に出ると、一瞬メマイがする程の眩しい光でボクはしかめっ面になった。
「眩しいの?」
「うん、クラっときそう」
「大丈夫?片目で」
「・・・平気」
「そう、ならいいけど・・・」リエ坊は続けて何かを言いたそうに俯いた。
「・・じゃ、オレ、行くね」
「うん」
「ねぇ、シン・・」
「なに?」
「ごめん、何でもない!」
じゃ、またね・・とリエ坊は軽く手を振り、夏の日射しの中を小走りで駅に向かって行った。
その背中は、瞬く間にアスファルトの陽炎の中に溶けていった。
送り火
ボクは重い足を引き摺りながら明大前の坂を下った。
道々、瞬く間に小さくなっていったリエ坊の後ろ姿を思いながら。
「これで、良かったんだよな・・」
ボクは自分に言い聞かせるように独りごちた。
2人の女性を傷付けてしまった事と、調子の良い自分への嫌悪でボクは今更ながらにさゆりさんに言われた言葉を噛みしめた。
本当にオトコって、どうしようもない生き物なんだ。
「はぁ・・・」