ノブ ・・第3部
「ん?なにが?」
モグモグしながら顔を上げたボクに恭子が言った。
「その人を本当に好きかどうか」
「ん?」
「その人がご飯食べてる顔を見れば分かるんやて」
「・・どういう事?」
「相手を心底嫌いになってたら、ご飯食べてる顔見ても何も感じん様になるらしいっちゃ」
「はあ」
「相手を好きな時はな・・」
「無邪気にご飯食べてる姿が、もの凄く愛しく感じるものなんやて」
そうなの・・?ボクはゴックンと飲みこんで恭子を見つめた。
「うん、本に書いてあったんやけど・・」
「本当やったっちゃ」
「後はな・・」
「うん、あとは?」
「笑顔っちゃ」
恭子はそう言ってテーブルの向こうから腕を伸ばして、ボクの頬を撫でた。
「アンタには・・いつも笑顔でいて欲しいけね」
「恭子・・」
「さ、食べり?」
「病院に行きたいっちゃろ?アンタ・・」
ボクは驚いて箸を止めた、図星だった。
「何で分かったの?」
「それ位分からんと思っとると?」
「大事なバンド仲間が緊急オペしたっちゃろ?酷い怪我で」
「・・うん」
「うちは待っとるけね、ここで」
「恭子・・」
「良か、うちは知らん人の見舞はせんよ」
「ここでアンタの帰りを待っとる」
恭子はそう言ってボクを真直ぐに見つめた。
「うん」としかボクには答えられなかった。
それからボクらは、黙って朝食を食べ終えた。
きっと恭子は言いたい事がもっとあったのだろうが、彼女は黙って食器をシンクに下げて洗いだした。
ボクは、気になっていた事を思い切って恭子の背中に問いかけた。
「恭子・・」
「なん?」
「いつまでいられるの?」
洗いものの手を止めて、恭子が振り返った。
「今日中」
「え?」
「アンタがお見舞いから戻ったら帰るけん」
「そうなんだ・・」
「合宿用の荷物を取りに戻るっちゅうたけね、何日もこっちにおるとはおかしかろ?」
「うん、そうだよね」
恭子はまた洗いものにかかり、ボクは食後の煙草に火を点けた。
「コーヒー・・」恭子が言った。
「淹れてくれん?」
「うん」ボクはケトルに水を入れてレンジにかけた。
お湯が湧くまでの間、サーバーに氷を詰めてドリップにフィルターを敷いて、モカをサラサラと入れた。
沸騰したお湯をドリップに注ぐと、モカの香りが立ち昇った。
「いい・・香りだ」
「うん、いい香り」
恭子が洗いものを済ませてボクの隣でドリップを覗きこんだ。
そして続けた。
「アンタが傷の消毒とお見舞い済ませてな」
「うん」
「帰ってきたら・・・」
チュっと恭子はボクのほっぺにキスして、マグカップを並べてボクを見て言った。
「アンタを確かめてから帰りたい」
「確かめる?」
「うん!」
恭子はコーヒーを二つのマグカップに注いでテーブルに置いた。
そして、セーラムに火を点けて小さく煙をはいた。
ボクも椅子に座ってコーヒーを一口飲んだ。
「美味しい・・」
「有難う、アンタが淹れてくれたコーヒーはほんと、アンタや」
「なんだ?それ」
「良かと、アンタなんやけ」
「そうなんだ」
ボクは、マグを抱え込んでゆっくりとコーヒーを飲む伏せ目勝ちの恭子が、この上なく愛おしく思えた。
ふいに涙が溢れて、ガーゼを当てていない右目から転がり落ちた。
「本当なんだね、さっき恭子が言った事」
「なん?どうしたと?アンタ・・泣いとうと?」
「うん、コーヒー飲む恭子見てたら」
「何かすごく・・・」
「なんね?」
好き・・とボクは言って立ち上がって、後から恭子を抱きしめた。
「辛い思いさせちゃってごめん」
恭子は、カップを置いてボクの腕を抱えて言った。
「良かよ、もう・・・」
「その代り、お願いがあるっちゃ」
「うん、なに?」
恭子は一層強くボクの腕を抱きしめて、言った。
「バンド、続けると?」
「分かんない、ギターの先輩があの怪我じゃ」
「そう、でも・・もしも続けるとやったら・・・」
「うちの存在をあの女にハッキリと言うて欲しいっちゃ!」
恭子は腕を解いて、振り返ってボクを見て言った。
「アンタ、言える?」
「・・・」恭子の瞳が真直ぐにボクを捉えて離さなかった。
「分かった。ちゃんと言うよ」
「本当に?」
「うん、言う」
「それで・・そのせいでバンドが解散になっても?」
「仕方ないよね」
「アンタ、寂しくないと?せっかくドラム始めたとに」
「そりゃ残念だけどさ、これ以上恭子に嫌な思いさせる訳にはいかないもん」
「本気ね、それ」
「だって、どっちかを選べって言われたら・・・」
「オレは恭子を選ぶよ」
言ってる自分自身が驚いた。
こんな台詞が、ボクの口から出てくるなんて。
恭子はまた前を向いて、ボクの腕を抱いて言った。
「有難う、嬉しか・・アンタの気持ち」
「そう言うてくれたら、それで良かけん」
「え、良かって・・」
「うん、あの女にはっきり言うてくれたら、バンド続けり?」
「だって恭子・・・いいの?」
「良か。でも、あくまでもバンドだけの仲やけ!」
「もう二度と抱かんでな?あの女を」
「・・・うん」
「どんな言葉で口説かれても・・分かった?!」
ボクの腕を抱いたまま、また振り返った恭子の目は真剣だった。
うん・・とボクも真面目に頷いた。
「学園祭までの間、バンドの時間だけアンタを貸してやるっちゃ」
「ただしオトコとしてやなくて、あくまでもメンバーとしてやけね!」
「はい」
「うん、ええ返事やね」と恭子は濡れたボクの右の頬に自分の頬を重ねた。
そしてボクの耳元で続けた。
「早う行って、帰ってき?!うちはここで待っとるけん」
「うん、じゃ・・行ってくるね」
ボクは恭子に借りたTシャツに袖を通して、ジーンズを穿いた。
「いや〜ピチピチっちゃんね、シャツ」
「いいよ、夏だし」
「あは、アンタは時々訳の分からん事言うけん」
行ってらっしゃい・・と恭子のキスを受けてボクは病院に向かった。
エレベーターを降りて外に踏み出すと、容赦ない真夏の太陽のお陰で明大前の坂で早くも汗が滴り落ちた。
「言えるんだろうか、オレ・・・」
「いや、言わなきゃ!」
「でもリエ坊はもう知ってるんだよな、恭子の事」
「どう言ったらいいんだろう」
「バンド・・終わりかな」
坂を上りながら繰り返す自問自答に、我ながら自分の情けなさが身に沁みた。
「最低だな・・・オレは」
ふと立ち止まって見た足元の自分の影も、太陽に叱られて縮こまってる様に本当に小さく見えて、ため息が出た。
汗をかきながら坂を上り、跨線橋を渡って病院に着いた。
形成外科の受付で診察券を出すと、丁度タイミング良く原田先生が顔を出してすぐに中に入れてくれた。
「よし、座れ」
「はい・・」
先生は眼帯とガーゼを外し、手際良く消毒してくれた。
「痛むか?」
「いえ、それほどじゃないっす・・でも」
「でも?」
「はい、脇腹の痛みの方がきついっす」
「どれ・・」
先生に右の脇腹を見せようとシャツをめくっただけで強烈な痛みが走った。
「はは、うん、折れてるな」
「そうですよね」
「ほれ、深呼吸してみろ」
言われた通りに二度三度と深呼吸を繰り返すと、その度にズキっと痛みが走った。