ノブ ・・第3部
会えなかった事よりも今夜の恭子の行き先の方が心に重くのしかかっていて、大きなボストンバッグを抱えて失意のままうろつく恭子を想像すると、ボクは言いようの無い気持ちでいっぱいになった。
ボクは、自分のアパートには帰らず恭子の部屋の前で待つ事にした。
多分恭子は、ここに帰って来るだろうと決めて。
壁に凭れて、ボクは部屋のドアの横に膝を抱えて座った。
体中が痛かったが、取り敢えず待つと決めてボクは目を瞑った。
ちゃんと話さなきゃ・・と思いながら、次第に閉じた目の奥がチカチカして耳鳴りがし出して、嫌な冷や汗が噴き出した。
「また、耳鳴りだ・・・・」
耳鳴りと一緒に遠くから蝉の声まで響きだして、ボクは冷や汗を拭うのも忘れて一層目を強く閉じた。
廊下はまだ、日中の熱気が抜けていなくて暑かった。
膝を抱えたままボクは、耳鳴りを聞きながら頬と脇腹の痛みに耐えていた。
「ちきしょ、段々痛くなってきちゃった・・」
暑さによるものなのか痛みによるものなのか、足の間のコンクリートには滴る汗の小さな染みが出来た。
その時、エレベーターがチン・・と開いて、足音が廊下に響いた。
顔を上げたボクの視界の隅に、ボストンを下げた小柄な女の子が映った。
「・・恭子」
恭子はボクに気付くと一旦立ち止まった。
そして、また歩き出してボクの前に立った。
「なんしよると?」
「うん、待ってたんだ」
「なして?」
話たくてさ・・と言いかけたボクの言葉を遮り恭子が言った。
「入り、真っ青やけ、アンタの顔」
そう言いながら恭子は鍵を開けた。
「うん」立ち上がろうとしたボクは、一瞬目の前が暗くなって星がチカチカ見えた気がした。
「あ・・」
腰が砕けて座り込みかけたボクを、恭子が支えてくれた。
「大丈夫?!」
「ゴメン」
ボクは恭子の肩を借りて、やっと玄関に座り込んだ。
「気持ち悪いと?」
「うん、何か・・目が回ったのかな」
「もう少し、ベッドまで行こう?な?!」
うん・・とボクはまた、恭子に支えられて寝室のベッドに横になった。
今なんか持っていくけね・・と恭子の声が遠くに聞こえて、ボクは目を閉じた。
また耳鳴りが大きくなって、冷や汗が噴き出した。
ふと頬に冷たいものを感じて目を開けると、恭子が冷たいタオルで顔を拭ってくれた。
「ひどい汗・・どうしたっちゃろ」
「吐き気は?なか?」
「うん、大丈夫」
「ホっとしたからかな・・」
「何がホっとしたと?」
「・・恭子が現れたからさ」
「帰ってしもたっち思うたと?」
「ううん・・」
ボクは目を閉じて東京駅まで行った事を話した。空港に電話した事も。
「そげな事する位やったら、なしてさっき止めんかったと?」
「・・うん、ごめん」
「もう良か」
「少し休み?」
うん・・と頷いてボクは恭子を見た。
「怒ってるんでしょ?」
「・・・・」
恭子はすぐには答えなかった。
そしてボクの目をジっと覗きこんで、ゆっくりと言った。
「お腹は?」
「え?」
「空いとらん?何か食べた方がいいっちゃない?」
「うん、でも今はいいや・・」
「何か、飲みたいかな」
恭子は何も言わずに立ち上がって、キッチンに行った。
怒ってるはずなのに何で答えなかったんだろう・・とボクは不思議というか不安になった。
もう、ボクには怒る価値さえも無くなったって事なのか?
暫くして恭子が大ぶりなグラスを持って来た。
「アイスコーヒーで良か?」
「有難う・・」ボクは起き上ってグラスを受け取った。
起き上る時にまた、脇腹がズキっと痛んで思わず顔をしかめてしまった。
「そげん・・痛むと?」
「うん、肋骨にひびが入ってるんだって」
「もう、信じられんばい!」
カップの中には氷が浮いていた。
一口飲んで、香ばしい香りが口の中に拡がった。
「・・美味しい」
さっき坂を上がりながら・・と、恭子が語りだした。
「悲しくて情けなくて、涙が止まらんかったっちゃ・・」
「来ると思ったアンタは、追いかけても来んし」
「・・ごめん」
「もう良か、こげな状態やったら・・走れんもんね、アンタも」
「でも、東京駅まで来て探してくれたっちゃろ?」
「・・うん」
「手紙は、読んだ?」
「うん、読んだ」
「うちも東京駅まで行って帰っての間、考えたばい・・色々」
「・・うん」
「あ〜あ、お腹空いたっちゃ!」
恭子はそう言うと、何か食べるものを買ってくるから・・と部屋を出て行った。
ボクはベッドの上でアイスコーヒーのグラスを抱えたまま、ひと息ついた。
正直、何から話したらいいのか分からないままに来てしまったのだから、少しの時間でも一人になれたのは幸いと言うべきなのだろう。
「いてて・・」
冷や汗もやっと引いて、少しめまいも落ち着いてきた様だった。
でも、さゆりさんの事、リエ坊の事・・ボクは天井を見つめたまま答えを探せずにいた。
恭子にどう言ったらいいのか、そんな事を考えてボクは目を閉じた。
京都から帰ってからの出来事を全部話したらきっと終わってしまうんだろう、ボクと恭子の関係は。
リエ坊との事はどう話したらいいんだ?
ありのままに?頼まれたからって?でも、それも何だか都合のいい言い逃れみたいな気がしていた。
結局ボクは、ボクの・・自分の意思でリエ坊と寝てしまった訳だし、いくら言い寄られたからって恭子を裏切る事になるのは十分に分かっていたのだから。
そして、その後リエ坊を好きになりかけていた事も否定出来ない。
「なんて言おうか」独りごちたところに恭子が帰ってきた。
「お弁当、買うてきたっちゃ」
「アンタの分もあるけ、食べたくなったら食べり?」
「有難う・・でも、今はいいや」
「痛むと?」
「うん、あちこちね」
はぁ〜、全く・・と言いながら恭子はケトルを火にかけた。
その湧いたお湯でインスタントの味噌汁を作って、恭子はテーブルで無言でお弁当を食べだした。
ボクはその間、気まずい思いで天井を見ながら考えていた。
「ふ〜、ご馳走様!」恭子が立ち上がって食べ終わった弁当を片付けてボクの横に座った。
「考えたっちゃけど・・」
「うん」
「アンタ、何でうちと付き合ってくれたん?」
「本当はうちやなくても誰でも良かったと?」
「どういう意味?」
「う〜ん、寂しかったけ取り敢えず・・みたいな」
「オレは・・」
「それとも、うちが可哀想やったと?」
「え?」
「アンタに一生懸命アタックしたけ、可哀そうやけ相手してくれたと?」
「違うよ、それは!」
ボクは起き上って恭子を見た。
「確かに誕生会の時、恭子に言われてビックリしたけど・・」
「嬉しくなって好きになったのは本当だよ、恭子の事」
「そう・・」
恭子は暫く視線を落として考えた後、ボクの一個の目を見て言った。
「でもアンタ、さっきの子も好きやろ?」
「え・・」
「はぁ、しょんなかね、バレバレたい」
「アンタの顔に書いてあるばい、あの子が好きって」
「恭子・・」
「でも、うちの事もまぁだ好きなん?やけ追いかけてきたと?」
「うん、心配だったし」
「何で?」
「だって、帰れないんじゃないかって思ったからさ」
「そう」