ノブ ・・第3部
カチカチっと小さな音がして、蛍光灯の冷たい明かりが誰もいないダダッ広い部屋に満ちた。
「ふ〜・・」ボクはアイスコーヒーを買って、さっきまで横になってた椅子に腰かけた。
煙草に火を点けた時、控室のドアが開いてリエ坊が顔を覗かせた。
「良かった、会えて・・」
「どうしたの、こんなに遅いなんてさ・・心配しちゃったよ」
「うん、病室に行ったら・・もう帰られましたって言われたから」
リエ坊はそう言いながら、紙袋を差し出した。
「着替え、持って来た」
「有難う!助かったよ。これでサッパリするな!」
リエ坊は何故か紙袋をボクに渡した後、下を向いた。
「どうしたの?やっぱ、何かあったの?」
「うん・・」
下を向いたまま、リエ坊が呟いた。
「会っちゃった・・」
「え?」
「・・会っちゃったの、シンの部屋で」
「誰に?」
「・・・・」
「聞こえないよ、誰に会ったの?」
「恭子さん・・」
「はぁ?!恭子って、何で?」
リエ坊は黙って速達をボクに差し出した。
それは、封が切られていない恭子からの手紙だった。
「どうしたの、これ・・」
「今日の昼前かな、玄関のドアの下にあったの」
「シンに渡さなきゃ・・って思いながら、渡せなかったの」
ボクは封を切った。
そこには、合宿・・五山の送り火を見に行く口実がうまくいきそうだと言う事と、荷物を取りに明日東京に行く・・という事が書いてあった。
手紙の末尾の日付が昨日だったから、明日とはつまり今日の事だったのだ。
「何て書いてあるの?」
「今日、荷物を取りにこっちに来るって」
「ごめんなさい、私がさっさと渡してれば・・」
「・・・・」
「シン、ゴメンね?本当に」
「部屋に行ってね、鍵を開けて・・シャツを探してたら、ドアがノックされたの」
「うん」
「誰だろう・・って思って玄関開けたら、彼女が立ってた」
「彼女、ビックリした顔で・・どちら様ですか?って」
「私も驚いちゃって・・」
シンのバンド仲間ですけどってしどろもどろになっちゃった・・と、リエ坊はやっと顔を上げた。
「そしたら彼女、あの人は?って」
「うん」
「ちょっと怪我して今、病院にいますって言ったの」
「怪我ってそんなに酷いんですか?って聞かれたから、いいえ、シンは大丈夫ですけどもう1人の方が重傷で・・って話したの」
「それから?」
「もう1人の仲間が今手術してて、私は頼まれてシンの着替えを取りに戻ったんですって」
「で?恭子は、何て?」
「部屋で待ってるって」
「そうか・・・」ボクは一瞬、混乱した。
考えもしなかった、恭子が出て来るなんて・・・・。
「・・シン、どうしよう、私・・」
「うん・・・」
「あ、タカダさんのオペはうまくいったよ、さっき部屋に帰ってきたから心配ないみたい」
「そう、良かった」とは言ったがリエ坊の顔は沈んだままだった。
「ねぇ、シン・・どうすればいい?」
「取り敢えず、リエもオレも帰ろう・・」
「今夜はタカダさんは寝たままらしいから、ご両親もさっき帰ったんだよ」
「そう・・」
ボクは紙袋から新しいTシャツを出して、顔の眼帯に注意しながら着替えた。
「ごめんなさい、私が・・お手紙すぐに渡してたら・・・・」
「いいさ、仕方ないじゃん」
「でも・・」
ボクはうな垂れたままのリエ坊に手を貸して、立ち上がらせた。
「オレは明日も包交に来るけど、暫くは練習も無いよな」
「うん、そうだね・・」
「抜糸までは多分毎日、病院に来るからさ、タカダさんの様子は知らせるよ、リエに」
「・・うん」
じゃ、行こう・・とボクらは部屋の電気を消して、人気の無い廊下を進んだ。
外はもう暗くなっていて、蒸し暑い空気がボクらを包み込んだ。
大学の門を過ぎて街の喧騒の中、駅に向かう橋を渡り終えるまでボクらは無言だった。
御茶ノ水駅の改札口で、リエ坊が言った。
「シン、怒ってるの?」
「ううん、怒ってないよ」
「本当に?」
「うん・・」そうとしか言えなかった。
リエ坊が「・・じゃ、またね・・」と言って改札口の向こうに吸い込まれて行くのを見届けて、ボクは明大前の坂を下りアパートに向かった。
途中見上げた空には薄ぼんやりと半月が出ていたが、星は一つも見えなかった。
正直、何も考えられなかったんだろう。
自分のアパートのドアに貼ってあった小さな紙切れにも最初は気付かずにドアを開けようとしたんだから。
「ん?鍵、かかってる・・」
ボクは改めて紙切れに目をやった。
「自分の部屋にいます。恭子」と書かれていた。
そうか・・ボクは階段を降り恭子のマンションに向かった。
「どうしよう、何て言ったらいいんだろう・・」ここに来て、ボクは焦りだした。
久しぶりの恭子、しかし京都で別れてからの数日の間に起こった事は、到底話せる訳は無いのは分かっていた。
「鉢合わせか・・」
すずらん通りを横切り、恭子のマンションの前でボクは暫くの間逡巡した。
そしてエレベーターに乗り部屋の前に立ち、ボクは意を決してチャイムを鳴らした。
「開いとるよ」中から恭子の懐かしい声が聞こえてきた。
「お邪魔します・・・」
「怪我は?どんなね?」リビングから顔を出した恭子が言った。
「うん、左目の上・・切っちゃった」
「縫ったと?」
「・・うん」
「なして?」
「ちょっとね、他のバンドのヤツ等に頭に来る事言われたりされたりしちゃってさ・・・・」
痛むと?と恭子はボクの顔を覗きこんだ。
「脹れとるね、ひどかばい」
「最初はこんなんじゃなかったんだけどね、段々脹れてきちゃった」
そう・・と言って恭子はリビングに戻った。
ボクがスニーカーを脱いで上がろうとすると「あ、良かけ・・そこにおって?」と制された。
「上がっちゃ、ダメ?」
「うん、うちももう出るけん」
「え、出るって、どこに?」
「帰るっちゃ」
「もう?」
恭子はボクを真直ぐに見ながら一気に言った。
「今夜はアンタと一緒におりたかったけど、やっぱ帰る」
「必要な荷物はまとめたしアンタに鍵だけ渡したかったと・・いくらなんでもアンタの部屋、鍵かけんで帰る訳にはいかんちゃろ?」
そりゃそうだけど、帰っちゃうのか・・とボクは呟いた。
ボクの言葉を聞いたのか聞かなかったのか、恭子はリビングの電気を消してボストンを下げて玄関に来た。
そしてボクらは外に出た。
恭子はドアに鍵をかけて、ボクに一通の封書とボクの部屋の鍵を渡した。
「これ・・読んで」
「これって?」
「良かけ、自分の部屋に帰ってから読んでな」
恭子はボストンを下げたまま、エレベーターのボタンを押した。
「新幹線、まだあるの?」
「分からん」
「分かんないって、もう博多行きが無かったらどうするんだよ」
「良か・・したら飛行機、スカイメイトで帰るけん」
「恭子・・」
「飛行機が無かったら、寝台車で帰るっちゃ」
エレベーターに乗ったボクらは無言だった。恭子は俯いたまま、ボクを見ようとはしなかった。
すずらん通りの喧騒の中で、恭子が言った。
「うち、1人で帰るけん・・ここでバイバイっちゃ!」
「・・恭子」
「したらね!」