ノブ ・・第3部
「どうしたんだろ、リエ坊・・」ボクはベッドの横のべンチに腰かけてタカダを見た。
喉の気管切開した所の上には透明のマスクがのせてあり、そこから水蒸気みたいなものが上がっていた。
それが時折、タカダの呼吸に合わせて綺麗に拡がったり乱れたりしていた。
「良かったっすね、オペがうまくいって」ボクは目を閉じているタカダに話しかけた。
勿論、応えは無かったが。
「失礼しま〜す」
そう言って看護婦が部屋に入ってきて、血圧と体温を測ってからベッドの脇にぶら下がってる半透明のビニール袋の目盛りをチェックした。
「なんですか?その袋は・・」
「ハルンです」
「ハルン?」
「学生さんなんでしょ?知らないんですか?ハルン・・」
「ごめん、知らないっす・・」
「尿ですよ・・オシッコの事をハルンって言うんです」
「はぁ、そうなんだ・・ハルンね」
「ドイツ語なんですって」
「そしてオペ後暫くは時間尿、つまり一時間にどの位の尿が出たかをチェックするんです。輸液量とのバランスのチェックなんです」
「すいません、ゆえき・・って?」
「輸液も知らないんですか?もう・・」
輸液とは点滴で入っている薬品や水分、電解質などの事で、そのトータル量と尿量のチェックは欠かせないのだ・・と教えてくれた。
「入った分と出てきた分のバランスを見なきゃ・・ね?!」
「はあ・・そうなんですか」
しっかりして下さいね?医学生さん・・とため息をつきながらも看護婦はテキパキと仕事を終わらせて、手元のボードに書き込んで出て行った。
「・・・・ホント、知らない事ばっかりっすね、オレ」
タカダは規則正しい呼吸をしながら、静かに眠っていた。
ボクは一服したくなって、学生控室でリエ坊を待つ事にした。
エレベーターで一階まで降り、渡り廊下を渡って本部棟の学生控室に行った。
もう控室の電気は消されていたから、ボクはスイッチを入れた。
カチカチっと小さな音がして、蛍光灯の冷たい明かりが誰もいないダダッ広い部屋に満ちた。
「ふ〜・・」ボクはアイスコーヒーを買って、さっきまで横になってた椅子に腰かけた。
煙草に火を点けた時、控室のドアが開いてリエ坊が顔を覗かせた。
「・・良かった、会えて」
「どうしたの、こんなに遅いなんてさ・・心配しちゃったよ」
「うん、病室に行ったら・・もう帰られましたって言われたから」
リエ坊はそう言いながら、紙袋を差し出した。
「着替え、持って来た」
「有難う!助かったよ。これでサッパリするな!」
リエ坊は何故か紙袋をボクに渡した後、下を向いた。
「どうしたの?やっぱ、何かあったの?」
「うん・・」
下を向いたまま、リエ坊が呟いた。
「会っちゃった・・」
「え?」
「・・会っちゃったの、シンの部屋で・・・・」
「誰に?」
「・・・・」
「聞こえないよ、誰に会ったの?」
「恭子さん・・」
「はぁ?!恭子って、何で?」
リエ坊は黙って速達をボクに差し出した。
それは、封が切られていない恭子からの手紙だった。
「どうしたの、これ・・」
「今日の昼前かな、玄関のドアの下にあったの」
「シンに渡さなきゃ・・って思いながら、渡せなかったの・・・・」
ボクは封を切った。
そこには、合宿・・五山の送り火を見に行く口実がうまくいきそうだと言う事と、荷物を取りに明日東京に行く・・という事が書いてあった。
手紙の末尾の日付が昨日だったから、明日とはつまり今日の事だったのだ。
「何て書いてあるの?」
「・・今日、荷物を取りにこっちに来るって」
「ごめんなさい、私がさっさと渡してれば・・」
「・・・・」
「シン、ゴメンね?本当に」
「部屋に行ってね、鍵を開けて・・シャツを探してたら、ドアがノックされたの」
「うん」
「誰だろう・・って思って玄関開けたら、彼女が立ってた・・」
「彼女、ビックリした顔で・・どちら様ですか?って」
「私も驚いちゃって・・・」
シンのバンド仲間ですけどってしどろもどろになっちゃった・・と、リエ坊はやっと顔を上げた。
「そしたら彼女、あの人は?って」
「うん」
「ちょっと怪我して今、病院にいますって言ったの」
「怪我ってそんなに酷いんですか?って聞かれたから、いいえ、シンは大丈夫ですけどもう1人の方が重傷で・・って話したの」
「それから?」
「もう1人の仲間が今手術してて、私は頼まれてシンの着替えを取りに戻ったんですって」
「で?恭子は、何て?」
「・・部屋で待ってるって」
「そうか・・・」ボクは一瞬、混乱した。
考えもしなかった、恭子が出て来るなんて・・・・。
「・・シン、どうしよう、私・・」
「うん・・・」
「あ、タカダさんのオペはうまくいったよ、さっき部屋に帰ってきたから心配ないみたい」
「そう、良かった」とは言ったがリエ坊の顔は沈んだままだった。
「ねぇ、シン・・どうすればいい?」
「取り敢えず、リエもオレも帰ろう・・」
「今夜はタカダさんは寝たままらしいから、ご両親もさっき帰ったんだよ」
「そう・・・」
ボクは紙袋から新しいTシャツを出して、顔の眼帯に注意しながら着替えた。
「ごめんなさい、私が・・お手紙すぐに渡してたら・・・・」
「・・いいさ、仕方ないじゃん」
「でも・・」
ボクはうな垂れたままのリエ坊に手を貸して、立ち上がらせた。
「オレは明日も包交に来るけど、暫くは練習も無いよな」
「うん、そうだね・・」
「抜糸までは多分毎日、病院に来るからさ、タカダさんの様子は知らせるよ、リエに・・」
「・・うん」
じゃ、行こう・・とボクらは部屋の電気を消して、人気の無い廊下を進んだ。
外はもう暗くなっていて、蒸し暑い空気がボクらを包み込んだ。
大学の門を過ぎて街の喧騒の中、駅に向かう橋を渡り終えるまでボクらは無言だった。
御茶ノ水駅の改札口で、リエ坊が言った。
「シン、怒ってるの?」
「ううん、怒ってないよ」
「そう・・じゃ、またね?!」
「うん、また!」リエ坊が改札口の向こうに吸い込まれて行くのを見届けて、ボクは明大前の坂を下りアパートに向かった。
途中見上げた空には薄ぼんやりと半月が出ていたが、星は一つも見えなかった。
正直、何も考えられなかったんだろう。
自分のアパートのドアに貼ってあった小さな紙切れにも最初は気付かずにドアを開けようとしたんだから。
「ん?鍵、かかってる・・・・」
ボクは改めて紙切れに目をやった。
「自分の部屋にいます。恭子」と書かれていた。
そうか・・ボクは階段を降り恭子のマンションに向かった。
「どうしよう、何て言ったらいいんだろう・・」ここに来て、ボクは焦りだした。
久しぶりの恭子、しかし京都で別れてからの数日の間に起こった事は、到底話せる訳は無いのは分かっていた。
「鉢合わせか・・」
すずらん通りを横切り、恭子のマンションの前でボクは暫くの間逡巡した。
そしてエレベーターに乗り部屋の前に立ち、ボクは意を決してチャイムを鳴らした。
「・・開いとるよ」中から恭子の懐かしい声が聞こえてきた。
「お邪魔します・・・」
「怪我は?どんなね?」リビングから顔を出した恭子が言った。