ノブ ・・第3部
リカバリールームの扉は開け放たれていて、覗きこんだボクは中年の紳士と目が合った。
きっと、タカダのお父さんなのだろう。
「どうも」軽く会釈したボクに、その紳士は頷いて目で入ってくる様に促した。
ボクの後にキャバーンの連中も続いた。
「君は・・善明と同じバンドの学生かね?」
「はい、1年の小川と申します。どうだったんですか?手術は」
「うん、うまくいったらしいよ、問題は無いだろうとの事だったから」
よかった・・・ボクは座り込みたいほど、ホっとした。
後からも安堵のため息が聞こえた。
しかしベッド上のタカダはまだ麻酔が醒めていないのか目を瞑ったままだった。
鼻には透明のチューブが差し込まれていて、顔の下半分から首にかけては包帯の上にネットが被せてあり、首の付け根には酸素のマスクが置かれていた。
「首は、どうしたんですか?」
「あ、これか?」
「これは手術の影響で口腔内とか舌根・・ま、舌の付け根だね、そこが脹れると呼吸困難になるから・・」
窒息しない様に予め気管切開をしてあるんだよ・・と説明してくれた。
「首、頭頸部のオペの時は時々こうするんだ」
「気管に、あな開けちゃって大丈夫なんですか?」
「うん、暫く声は出せんが口腔内の脹れが退けばカニューレを抜けるよ」
「そうしたら自然に閉じる、で・・・声が戻るという訳だ」
「済みません、何で声が出ないんですか?」
「君は・・1年生と言ったな?」
「はい」
「じゃ、分からんのも無理はないが・・」
気管切開というのは喉の声帯より随分下のレベルの気管に孔を開ける、だからそこから呼吸すると空気が声帯を通らなくなるから声を失うのだ・・とタカダのお父さんは丁寧に教えてくれた。
「はぁ〜、凄いんですね・・」
「いや、術後の安全のためには当然の処置だよ、覚えておきなさい」
「はい、分かりました」
なんか講義を聞いてるみたいだと思ったがそれも当然、タカダ父は大ベテランの医者なのだからね。
「それから君達」
ボクの後ろに目を向けてタカダ父は言った。
「・・はい」キャバーンのメンバーが体を硬くした。
「今回の件は、不問に付す事にしたから」
「え?!」
「警察の方には私から連絡しておく。だから君達が今後事情聴取される事は無いだろう」
「併せて大学にも寛大な計らいをお願いしておくから、心配はしなくていい」
「え、そんな・・いいんですか?」
「聞けば、君達も随分反省したらしいじゃないか。今回はすこし大事になってしまったが」
「ま、言ってみれば学生同士のケンカだ、命の遣り取りした訳じゃないからね」
「はぁ、でも・・・・」
「ただ君達も医学生なら、偶然でも故意じゃなくても大怪我、場合によっては命だって危うくなるんだという事をきちんと覚えておきなさい」
「人を助ける立場の人間が、人を傷つけていい道理は無いからね?!」
「はい・・」
申し訳ありませんでした・・・・キャバーンのメンバーが口ぐちに謝った。
「いいさ、善明が元気になったら、手打ちの飲み会でもするがいい」
「有難うございます」メンバーの中のボーカルが、涙声で言った。
さて・・とタカダ父が言った。
「私は家に戻るから、君達も帰りなさい」
「はい、でも」
「今夜はこのまま寝たきりだよ、善明は」
「失礼します」と看護婦が部屋に入ってきた。
後には形成外科の原田先生も一緒だった。
「おう、お前らか」
「先生・・」
「どうですか、様子は」
「お陰さまで、よく眠ってますな」
「お父様も御心配でしょうが、オペはうまくいきましたから大丈夫でしょう・・」と言いながら包帯の様子や隙間から伸びている赤いチューブを原田先生は確認した。
うん、ドレーンも効いてるな・・と言いながら。
「あの・・先生?」
「なんだ?」
「そのチューブは、何ですか?」
「これか?これはな・・」先生は手術後の傷、つまり手術創の中に血液が溜まると感染を起こしたり創の治りが悪くなるので、それを防ぐように溜まった血液や浸出液を外に出すためのチューブなのだ・・と説明してくれた。
「はぁ、出しちゃうんですか・・・・」
「うん、そうして同時に陰圧をかければ組織の生着も良くなるんだ」
面白い・・不謹慎かもしれないがボクは興味津々だった。手術か、かっこいいな。
じゃ、オレ達は・・・とキャバーンの連中が原田先生とタカダ父に挨拶をして、リカバリールームを出て行った。
術後のチェックを終えた原田先生も、お父さんに会釈して出て行った。
ベッドの横には、ボクとタカダ父だけが残された。
「君は?帰らんのかね・・」
「仲間がまだ、戻らないんです」
「リエちゃんか?」
「はい、ご存じ・・なんですよね?」
「良く知ってるさ、善明の高校時代からの友人だからね。どこに行った?彼女は」
はぁ・・ボクはモゴモゴと口ごもってしまった。まさか、ボクの家に着替えを取りに行って貰ってるなんて言えなかったから。
「じゃ、リエちゃんを待つのもいいが・・君も早めに帰って休んだ方がいいだろう、見ちゃおれん顔だぞ?」
「はあ」
確かに、左目は塞がって頬っぺたは脹れあがってるしTシャツは血まみれだし・・。
「はい、でも・・もう少し待ってみます」
うむ・・と頷いてタカダ父は部屋を出て行った。
「どうしたんだろ、リエ坊・・」ボクはベッドの横のべンチに腰かけてタカダを見た。
喉の気管切開した所の上には透明のマスクがのせてあり、そこから水蒸気みたいなものが上がっていた。
それが時折、タカダの呼吸に合わせて綺麗に拡がったり乱れたりしていた。
「良かったっすね、オペがうまくいって」ボクは目を閉じているタカダに話しかけた。
勿論、応えは無かったが。
「失礼しま〜す」
そう言って看護婦が部屋に入ってきて、血圧と体温を測ってからベッドの脇にぶら下がってる半透明のビニール袋の目盛りをチェックした。
「なんですか?その袋は・・」
「ハルンです」
「ハルン?」
「学生さんなんでしょ?知らないんですか?ハルン・・」
「ごめん、知らないっす」
「尿ですよ・・オシッコの事をハルンって言うんです」
「はぁ、そうなんだ・・ハルンね」
「ドイツ語なんですって」
「そしてオペ後暫くは時間尿、つまり一時間にどの位の尿が出たかをチェックするんです。輸液量とのバランスのチェックなんです」
「すいません、ゆえきって?」
「輸液も知らないんですか?もう・・」
輸液とは点滴で入っている薬品や水分、電解質などの事で、そのトータル量と尿量のチェックは欠かせないのだと教えてくれた。
「入った分と出てきた分のバランスを見なきゃ・・ね?!」
「はあ・・そうなんですか」
しっかりして下さいね?医学生さん・・とため息をつきながらも看護婦はテキパキと仕事を終わらせて、手元のボードに書き込んで出て行った。
「ホント、知らない事ばっかりっすね、オレ」
タカダは規則正しい呼吸をしながら、静かに眠っていた。
ボクは一服したくなって、学生控室でリエ坊を待つ事にした。
エレベーターで一階まで降り、渡り廊下を渡って本部棟の学生控室に行った。
もう控室の電気は消されていたから、ボクはスイッチを入れた。