ノブ ・・第3部
「うん、前に友達がシャブリのヴィンテージ飲ませてくれたからさ・・」
ボクは、さゆりさんの笑顔を思い出していた。
女の人って、みんなワインが好きなのかな。
ゆっくりとコルクを抜いたリエ坊は、そのコルクの先をクンクンと嗅いだ。
「何してるの?」
「ダメになっちゃったワインは、臭いで分かるんだって」
で、どうなの?そのバローロは・・とボクが聞くと「分かんない!」と笑いだした。
「ソムリエじゃないもん、私」
「・・何だ、姉ちゃん、カッコだけかよ!」マサルの突っ込みに食卓は笑いに包まれた。
各々のグラスにバローロが注がれて、4人で乾杯した。
グラスの音がチィーンと上品だったのは、あながち気のせいだけじゃないだろう。
こんな大きな、薄手のワイングラス・・ボクは見た事無かったからね。
「・・」一口飲んで、ボクはその渋みに驚いた。
「うん、美味しい!」
「すげ〜な、これ・・ガツンとくるね!」
「ほんと、美味しいわ、バローロはさすがね・・」お母さんも、ニッコリとご満悦の様子だった。
「・・これ、渋い感じなんだけど、美味しいの?」
「うん、好みにもよるけどね、フルボディの赤ってこんな感じよ」
「フルボディって、なに?」ボクはリエ坊にまた聞いた。
「う〜ん、味わい深い、濃厚なって感じ?ま、要するに濃い感じの事みたいね」
「・・そうなんだ、フルボディって、渋いんだ・・」
私はね、お味もだけどこの色も大好きなの・・とお母さんが、大ぶりのワイングラスをシャンデリアに透かした。
「ほら、ルビーみたいでしょ?この色・・」
「うん、ほんとだ、綺麗!」
リエ坊もマサルも同じ様にグラスを掲げた。
ボクは、そんな3人の様子を見ながら・・ある事を決めた。
「リエさん、ちょっといい?」
「・・なに?」
さっきとは逆に、今度はボクがリエ坊をキッチンに連れて行き、言った。
「オレ・・ボチボチ帰るね。」
「何で?!まだいいじゃない!なんなら泊ってくれても・・」
「ううん、オレ・・いない方がいいよ、特に今夜はさ」
「・・シン」
リエさんもお母さんとやっと・・ね?!とボクは言って、リエ坊にキスをした・・見つからない様に。
ボクはダイニングに戻ってお母さんにお礼を言い、マサルにはエールを送って、プレハブ小屋の自分の荷物をまとめた。
もう一度、玄関からお礼を言おうと扉を開けると、お母さんとマサルが見送りに出て来てくれていた。
「・・ゆっくりしていらっしゃれば?」
「そうだよ、泊ってもいいんだからさ!」
「有難うございます、でもボクも家に帰らないと」ボクは心からニッコリとお礼を述べた。
「美味しかったです、ピザもカレーも・・あ、バローロも!」
また、いつでもいらしてね?うちは大歓迎ですから・・と、お母さんが言ってくれた。
「また・・音出しに来なよ、オレ、キーボでつきあうから」とマサルも嬉しい事を言ってくれた。
はい、有難うございます・・と頭を下げて、ボクは敷石を踏んで歩きだした。
「待って?送ってくわ!」リエ坊がついてきた。
「いいよ、みんなでゆっくり飲んでなよ、せっかくなんだからさ」
「うん、駅まで行くわ、道・・分からないでしょ?!」
それも、そうか・・・ボクはリエ坊に駅まで送って貰う事にした。
門を出て、すっかり暗くなった道をボクらは浜田山の駅に向かった。
夜道には、蝉の合唱が響いていた。
「シン・・」
「なに?」
「何か、気分害しちゃったんじゃないよね?」
「ううん、違うって。今夜は家族水入らずがいいかな〜?って思ったからさ」
「ほんと?」
「うん、本当」
「じゃ、嫌いになったんじゃないよね?」
「え?!」
私の事・・と言いながらリエ坊が抱きついてきた。
「リエさん・・」
「お願い、言って?」
「何を?」
「・・好きって」
梨恵子が好きだと言って欲しい・・と、リエ坊がキスしてきた。
ボクの顔を抑えつけてがむしゃらなキスだったが、リエ坊の気持ちがストレートに伝わってきた。
「ゴメン、シン・・」キスの後、リエ坊はボクの答えを待たずに言った。
「言える訳ないよね、脅迫だわ、こりゃ!」
無理やりに笑おうとしたリエ坊に、僕は正直に言った。
「好き、彼女以外の人に言っちゃいけないのかもしれないけど・・」
「オレ、リエさんの事好きだよ」
「でも・・」
「ううん、もういい!」
「それだけで充分よ、シン・・」
「あとは、聞きたくないから、言わないで・・ね?!」
「リエさん・・」
「もう、ここまでくれば分かるわね」
リエ坊は真直ぐの道を指差して「あと5分で駅だからさ!」と言った。
「明日も2時6時だからね?練習」
「遅れちゃダメよ!」
後ずさりしながらそれだけ言うと、リエ坊はボクに背を向けて走って行った。
途中で振り返ったリエ坊は、大きな声で叫んだ。
「・・遅れたら、迎えに行っちゃうからね〜?!」
「うん、遅刻しない様に頑張るよー!」ボクは手を振った。
リエ坊も手を振ってくれて、そして走って帰って行った。
浜田山駅までの道々、ボクは複雑な気持ちで一杯だった。
人通りの少ない道には等間隔に街路灯が光り、振り返ったボクにはもう、リエ坊の家は見えなかった。
「あ、いけね!文無しだったんだ、オレ・・」
ほろ酔いで駅までの道をブラブラと歩いていたボクは、財布がスッカラカンである事を思い出してしまった。
仕方ないな、今更リエ坊の家までお金を借りに戻る訳にもいかないし・・・。
諦めてボクは駅に向かい、駅の近くの交番で御茶ノ水までの電車賃を借りた。
「うん?君・・酔ってるの?」
「はあ、ちょっと飲んじゃったんで」
「まさか、未成年じゃないよね?」
はい、違います・・とボクは学生証を見せた。
「ほ〜、お医者さんの学校か」年配のお巡りさんは、気持ち良く電車賃を貸してくれたが、一言・・言った。
「大学生だからいいんだけどね、この国の法律では20歳にならないと飲酒はいけないんだよ・・」
「あ、そう言えば・・そうですよね」
「ま、曖昧なグレーゾーンって事かな、君の場合は」
それでも後は、笑いながら頑張りなさいよ?!と肩を叩いてくれた。
ボクもハイ、と答えながら近日中の返金を約束して、井の頭線に乗った。
「ふ〜、意外な展開か」
正直、いたたまれなくなった・・という方が正しいだろう。
姉の彼氏だからこそ、マサルもあんな相談を持ちかけたんだろうし、お母さんに至っては・・・。
ボクをリエ坊の彼氏と信じてしまった家族の前で、ボクは彼氏を演じる事に抵抗を感じてしまったのだ。
でも、リエ坊とお母さんが和解出来た事は、やっぱり嬉しかった。
「そうだよな、たまには家族水入らずがいいもんな・・」
渋谷で山手線に乗り換えて新宿に出て、オレンジの中央線に乗り換え・・やっと御茶ノ水に着いた。
道々ず〜っと考えていたのは、リエ坊との今後だった。
このまま続くのか?それとも、本当に・・教えただけで終わるのか?
「オレ、どっちを期待してるんだ?」ボクは自問しながら分からなくなっていた。
アパートは、やはり暑かった。
熱気を逃がしてる間に・・シャワーを浴びた。