ノブ ・・第3部
お母さんがエプロンで手を拭きながら、キッチンから出てきた。
「ちょっと張りきって辛くし過ぎちゃったかしらね・・」
「ううん、いつもの味だよ、これ」
マサルは平気な顔で2杯目を平らげて、サラダを突きながら言った。
「・・そうね、取りたてて今日のは辛いって程じゃないわね」
お絞りを渡してくれたリエ坊もまた、涼しい顔で食べ始めた。
「う、うん、大丈夫・・オレ、ほら汗っかきだから」
「ウソ仰い、辛いんでしょ?シン・・」
無理だったらいいからね?残しても・・と、今度は心配そうにボクを覗きこみながらリエ坊が言ってくれた。
「あ、そうだ!アレ作ってくる。待ってて?シン・・」
リエ坊はまた立ち上がって、キッチンに消えた。
ボクの前ではお母さんが、小振りなお皿でカレーを食べた。
「そうね、いつもの通りのお味だけど・・・」
「いや、大丈夫です・・美味しいです!」ボクは無理やりニッコリして、カレーを頬張った。
「いいのよ?オガワさん、無理なさらないで?」
「・・平気です、段々慣れてきましたから」
本当だった。徐々にではあるがボクはこのカレーに慣れ始めていた。
でも、汗は変わらずにダクダク流れていたし、口中の感覚は既に無かった・・。
「・・はい、シン」これ、飲みながら食べればいいわ・・とリエ坊がボクの前にグラスに入った白いジュースみたいなものを置いた。
「なに?これ」
「ラッシー」
「ラッシーって、あの犬の?」
「は?なに言ってるのよ、それはテレビでしょ?!」
「ヨーグルトの飲み物よ、インドのね」リエ坊は笑いながら言った。
「ラッシー・・」
「うん、ヨーグルトと蜂蜜を混ぜてあるの、美味しいよ?」
ゴクっと一口飲んで、ボクはまた驚いた。
美味しかった、甘くて冷たくて・・ヒリヒリした口の中が癒される感じで。
「美味しいね、コレ・・ラッシーって言うんだ」
「うん、口の辛いのも和らぐでしょ?!」
「・・うん、ヒリヒリが軽くなったみたい」
「やっぱり、辛くて困ってたんじゃない!もう、無理しちゃって・・」
「あは、うん・・辛かった、ほんとは」ボクもラッシーでひと心地ついたお陰で、笑う事が出来た。
「ごめんなさいね、先に聞いておけば良かったわね・・」
「いえ、いいんです・・大丈夫、美味しいです!」
「シンさん、いいよ?残してもさ」
「オレ、外でカレーって食べないもんな、うちのに慣れちゃうとね・・」
「・・全然、辛さが足んないんだよな、外のカレーって」
そうだろうとも・・普段からこんな辛いのを食べてたら、どこの店のカレーもお子ちゃまカレーに感じてしまうだろう。
でも、お母さんのカレーは辛かったが次第に美味しくなってきたのも事実だった。
ラッシーのお陰かもしれない。
鳥も良く煮込まれてて、スプーンで押すとホロホロと肉が骨から離れて食べ易くなっていた。
「・・合うんだね、カレーとラッシー」
「そうでしょ?インドではラッシーとかチャイっていうお茶と一緒に食べるんだってね、カレーって」
「そうなんだ・・」まだまだ世の中広いんだな・・当たり前だけど。
何だかんだ言いながら、ボクは大盛りカレーを平らげてしまった。
でも、頭から水を被った様な姿だったけど・・。
「オガワさん、お代わりは、いかが?」
「はい、頂きます」
「いいの?シン、無理しなくていいのよ?!」
ううん・・ボクはニコニコして言った。
「ほんと、美味しくなってきちゃった・・」
「ラッシーのお陰もあるんですけど・・でも美味しいです、お母さんのカレー!」
やっと、辛さの向こう側の美味しさが分かってきたみたいで、ボクは嬉しかった。
2杯目に取りかかりながらボクは、さりげなくお母さんとリエ坊の様子に気を配った。
リエ坊はカレーとサラダを交互に食べながら、終始・・静かだった。
お母さんはと言えば、一口食べてはニコニコとボクとリエ坊を見やった。
「・・ご馳走さん!」マサルが自分の食器を持ってキッチンに行き、暫くしてまた、ビールの瓶を提げてテーブルに着いた。
グラスをボクの前に置いて、マサルはビールを自分のグラスに手酌して言った。
「シンさんも、一杯位いいんじゃない?」
「あら、また飲むの?」
「うん、これ一本で止めるよ・・勉強もあるし」
「アンタ、ビール飲んでから勉強なんて出来る訳ないじゃない!」リエ坊が言うと、すかさずマサルは「いいんだよ、適度なアルコールは神経を解してくれるんだから・・」と、最もらしい言い訳をして、グイ〜っとグラスを空けた。
「はぁ、調子に乗っちゃってさ・・」
リエ坊は呆れながら、それでも顔は笑っていた。
「シンも飲みたいんじゃない?」
「ううん、ラッシーがまだあるから、いいよ」
「じゃ、飲んじゃおうかな・・」とリエ坊はキッチンからグラスを2つ取って来て、1つをお母さんの前に出した。
「飲もうよ、お母さん」
「そうね、久しぶりだから・・頂こうかしら」
「注ぎなさい、ほら!」
「なんだ、姉ちゃんも飲むんじゃんか、しようがね〜な」
マサルはブツブツ云いながらも、2つのグラスにビールを注いだ。
「サンキュ!」
「アナタ達とおビールなんて、いつ振りかしらね」
グラスを持って小首を傾げながら微笑むお母さんの顔は、幸せそうに見えた。
「お母さん、ごめんね?今まで」
2つのグラスが、カチンと音をたてた。
「あら、どうしたの?梨恵子・・・」
「うん、私・・ちょっと情緒不安定だったからお母さんに嫌な思いさせちゃったかなって」
リエ坊は、これが言いたくてグラスを2つ持って来たんだろう・・。
「・・・・」
お母さんはリエ坊を見つめながら、暫くグラスを持ったままだった。
そして、不意にお母さんの目からポロっとひと筋の涙が零れ落ちた。
「あら、やだわ・・」
慌てて笑って、お母さんはビールを飲んだ。
リエ坊もそんなお母さんを見て、ビールを一口飲んだ。
「オガワさんのお陰かしら?」
「は・・?」
「梨恵子がこんな事言うなんて初めてだから、お母さん、慌てちゃうわ!」
「いえ、ボクは何にも・・」
そうかも、シンのお陰かもしれないの・・と、リエ坊が言った。
「お母さん、私ね・・シンと知り合ってから変わったのかもしれない、色々な面で」
「そうなの?梨恵子・・」
「うん、少しだけ素直になれたかもしれない」
有難うございます、オガワさん・・とお母さんに頭を下げられて、ボクは恐縮してしまった。
「いえ、ほんと・・ボクなんて何にも」
「なんだ、みんな・・どうしたの?何で泣いてるんだ?母さん」
「何でもないの、お母さん嬉しいの・・」
こんな風に大勢でご飯食べるなんて久しぶりでしょ・・とお母さんはマサルに言った。
「そうか、じゃ・・オレも大学受かって彼女でも連れて来たら、もっと人数増えるんだな」
そしたらもっと賑やかになるな、あはは・・と笑ってマサルはビールを飲み干して言った。
「シンさんはさ、何で医学部入ったの?」ふいにマサルが真面目な顔で聞いてきた。
「え?何でって、目的?」
「うん」
「う〜ん、本当はね、ずっと文系志望だったんだよ」