ノブ ・・第3部
「シンはブラックが好きだからってお願いして」
リエ坊は少し恥ずかしそうに、だから私もブラックなの・・と自分も一口飲んだ。
「いいね、ブラックの方が」
「・・うん」
「本当に香りが良く分かるわ、シン、有難う」
う、うん・・ボクは曖昧に頷く事しか出来なかった。
マンデリンは恵子の味だった。恭子は・・モカか。
コーヒーを飲んで静かになったボクを、リエ坊は少し不思議そうに眺めていた。
「どうしたの?ひょっとして美味しくない?」
「ううん、違うよ!美味しい・・」
グラスを見つめながら、このコーヒー、多分・・死んだ彼女が教えてくれたボクの一番好きな豆だよ・・とリエ坊に言った。
「そうなんだ、ゴメン」
「いや、謝んなくていいって。そんな積もりで言ったんじゃないよ」
懐かしい味だったからさ・・とボクはリエ坊に笑いかけた。
「オレさ、このマンデリンで初めてコーヒーって美味しいんだな〜って思ったんだ」
「だから、思い出の豆って事」
「シン・・」
「なに?」
「・・いい、何でもない!」リエ坊は無理やり笑って、言った。
「少し、合わせてみる?クリーム」
「うん」
ボクはグラスを置いて、スティックを握った。
リエ坊が何を言いかけたのかは分からなかったが、ボクはあえて考えるのを止めた。
きっと・・・。
サンシャイン ラブと呪われた夜・・それからボクらは、この2曲を繰り返して練習した。
前もってタブを見ていたのも随分助けにはなったが、やはりリエ坊のベースが入ると曲が一段と締まって雰囲気が出た。
叩いてても気持ち良かったし、ベースを鳴らすリエ坊もカッコ良かった。
キャバーンのヤツら、リエ坊の腕も勿論欲しかったんだろうけど、きっとこのリエ坊の姿もバンドに加えたかったに違いない。
ボクは、腰の辺りに提げた大きなベースを長い髪を振り乱して慣らすリエ坊に見とれた。
「カッコいい・・」
呪われた夜のエンディングは本来、ギターソロの後なのだが・・リエ坊の目配せで、その前にボクらは演奏を終えた。
「ふ〜、良かったね、シン・・」
「うん、気持ち良かった」
「リエさんもカッコ良かったし!」
エヘヘ・・とリエ坊は照れ笑いしながらベースをスタンドに置いた。
こんな顔、ボクらの関係がこうなる前には見た事無かったな。
「これで・・」
6曲、なんとか目鼻が付いたね・・とリエ坊が微笑んだ。。
「うん、何か嬉しくなってきたな、オレ」
「大丈夫よ、この調子で詰めていけばシンなら絶対に!」
「有難う!」ボクもリエ坊も、上機嫌だった。
ね、シン・・リエ坊は少し改まった調子で、言った。
「今夜も・・」
「え?」
「シンのとこ、行っちゃダメかな」
「うん・・」
実はボクも考えていた、もしかしたらリエ坊は・・・。
「でもさお母さん、心配しないかな」
「・・・・」
「リエさん、いいの?2日連続なんて」
「私、行きたい!」
リエ坊は、真直ぐにボクを見た。
「シンさえ迷惑じゃなければ・・だけど」
「うん」ボクは即答出来なかった。
昨日に続き今夜も・・となると、きっとまた・・・。
「リエさん・・」
「何?」
「いいや、ゴメン」
何でもないとボクは言葉を濁した。
「お母さんは、オッケーすると思う?」
「さっきね、実はもう言っちゃったの」
「え?!」
リエ坊はモジモジしながら、小声で言った。
「明日は部室で練習だから、シンのアパートに泊った方が近いからって」
「で、何て?」
「うん、オガワさんのご迷惑にならないのならって・・」
俯き加減でそう言ったリエ坊は、昨日の夜の帰り道の顔だった。
正直、ボクは迷っていた。
このまま今夜も一緒に過ごして、リエ坊との付き合いがエスカレートしてしまったらどうなっちゃうんだろう。
心のどこかでボクはまた、あの小石が転がる痛みを感じていた。
「・・シン、困ってる?」
「ううん、困ってはいないさ。でも・・」
その時、重い扉がガチャっと開いて、マサルが顔を覗かせた。
「ほら、お二人さん?!飯だってよ!」
「え、もうそんな時間なの?」
「何言ってんだよ、もう7時過ぎてんだぜ?」
「母さんが呼んでるからさ、早く来てよ」
オレも飯食いたいしさ・・と言い残してマサルは扉を閉めた。
「いいの?晩御飯まで頂いちゃって・・」
「うん、一緒に食べよう?」
リエ坊はいきなり抱きついてきて、耳元で囁いた。
「そしてご飯食べたら、シンのアパート行こう?」
「リエさん・・」
リエ坊はボクの答えを待たずにキスして、ボクの手を引いて扉を開けた。
小屋の外は丁度黄昏時で、遠くで蜩の声が聞こえた気が、した。
ダイニングルームではもう夕食の準備が済んでいて、マサルは独り食べ始めていた。
「あ、先に喰ってるから・・」モグモグしながらマサルが言った。
夕食はカレーだった。
ダイニングに入った時からしていたいい匂いに、ボクのお腹がグ〜っと鳴った。
「今夜は久しぶりに大勢だから、チキンのカレーにしたの、頂きましょ?!」
「さ、オガワさん・・どうぞ?」
「はい」
ボクはお母さんに促されるまま、リエ坊の隣に座った。
テーブルの真ん中には、大きな白い貝の中にサラダが盛ってあり、銘々の取り皿も貝だった。
「はい」
「あ、有難う」リエ坊がサラダを取り分けて、ボクの前に置いてくれた。
「このお皿の貝、何ていうの?」
「これはね・・シャコ貝」
ボクは初めて見る本物の貝のお皿に感嘆した。なんかリッチだぞ。
サラダはポテトのサラダで細かく刻んだ野菜とリンゴ、ハムが入っていて、パセリが色どりを添えていた。
「カレーは、お好き?」
「はい、大好きです!」
「良かったわ、沢山召し上がってね?!」
「はい」
お母さんがボクの前にカレーを置いてくれた。
見れば明らかに大盛りだった。
チキンのチューリップというのか、骨付きの鳥も3本入っていた。
「シンなら、この位平気でしょ?」リエ坊が笑いながら言った。
「うん、でも・・大盛りだね」
「大丈夫だよ、オレ・・2杯目、これ」マサルは文字通り、モリモリ食べていた。
「いただきます」
ひと口食べてボクは、静かになってしまった。それ程に辛かったのだ、お母さんのカレーは!
「・・・・」
「シン、どう?美味しい?」
「う、うん、美味しい・・」
ボクは口の中のヒリヒリに耐えながら、何とかカレーを食べた。
そして暫くして、一気に汗が頭と云わず額と云わず・・・まるで滝の様に流れ出て来て、ボクは自分の顔が火照るのも自覚した。
舌と喉の感覚は、もう麻痺していた。
「あ、シン・・辛いのダメだったっけ?」
「ううん、平気・・美味しいよ!」
「あ、シンさん、すんげ〜汗!」大丈夫?と、マサルが目は笑いながら言葉だけで心配してくれた。
「だ、大丈夫、ちょっと辛いけど・・」
「姉ちゃん、お絞りくらい持って来てやれよ、シンさん汗だくじゃん!」
そうね、と立ち上がったリエ坊も笑いを噛み殺した様な顔だったから、ここではどうやら、この辛さに参ってるのはボクだけらしい・・。
「あら、オガワさんには少し辛かったかしら?」