ノブ ・・第3部
右側の大きな窓のレースのカーテン越しに芝生の庭が拡がっていて、その端には白いテーブルと椅子が見えた。
きっと午後のお茶用なんだろうな・・と勝手にボクは想像した。
その芝生の庭のぐるりを緑の木々が囲む様に茂っていて、その一角にはバラのアーチもあった。
そして、はたと気付いた。その庭の木々の向こうに・・・一切の建物が見えないのだ。
見えるのは、緑の上に拡がる夏の青空だけ。
「これが、高級住宅街ってヤツ?」
「ひゃ、本物の金持ちの家か」
恥ずかしながら、下町の開業医風情には想像もつかない暮らしがそこにはあった。
「あら〜、いらっしゃい!」
ボケ〜っと庭を眺めていたボクは、後ろからかけられた華やいだ声に驚いて振り返った。
そこにはピンクのワンピースの上に、白いフリルの付いたエプロンをして微笑む、小柄な女性が立っていた。
「あ、失礼してます・・オレ、いやボク・・リエさんのクラブの後輩で・・」
小川伸幸と申しますと立ち上がってお辞儀をした。
「こちらこそ、いつも梨恵子がお世話になりまして」
「我が儘でしょ?あの子・・・」
ボクは頭の上から降り注ぐ、鈴を転がした様な綺麗な声に、なかなか顔を上げる事が出来なかった。
でも、いつまでも腰を折ったままっていうのも変だから、ボクは顔を上げた。
お母さんはニコニコと笑いながら、小首を傾げてボクを見た。
驚いた。
ウェーヴのかかった栗色の髪が小さな白い顔を一層際立たせているみたいで、ボクはなんて綺麗な人だ・・と思わずドギマギして目を逸らせてしまった。
いつも白衣姿で化粧っ気のないうちのお袋とは大違いだ。
「・・オガワさんって、仰った?」
「はい、小川です」
「お幾つなの?随分、お若い感じね」
「は・・今年入ったばかりで、18です」
「あら、じゃ、梨恵子の方が年上なのね?よろしいの?」
「はぁ?」
「だって、お付き合いなさってるんでしょ?あの子と」
「へ・・?」
ボクがしどろもどろになっている所に、リエ坊がグラスを載せたお盆を持って来た。
「もう、お母さんはいいから!あっち行っててよ!」
「あらあら、お邪魔かしら・・」
では、ごゆっくりなさって下さいね?オガワさん・・・とお母さんは軽く会釈して、奥に行った。
リエさん・・・ボクはリエ坊からお盆を受け取って、テーブルに置いてから言った。
「ねぇ、お母さん・・変な事言ってたよ?」
「聞いてたわよ、私だって」
「どういう事?」
「知らない!多分、私が初めて朝帰りして・・あ、昼帰りか、もう・・」
「おまけに男の子を連れて来ちゃったから、ビックリして浮かれちゃったんじゃないの?」
「初めて、なの?男子はオレが」
「あ、バンドのメンバーは来た事あるわよ?勿論・・」
「でも、1人って、シンが初めてだね」
「ごめんね、お母さんが変なこと言っちゃって」
「ひょっとして、気ぃ・・悪くした?!」
リエ坊がボクの目をのぞき込む様に見て、言った。
「ううん、驚いたけど、そんなワケなら仕方ないよね、勘違いしてもさ」
「・・」
「お母さん、いくつに見えた?」
「え?!お母さんの歳?」
「うん、いくつ位だと思った?」
ボクは困ってしまった。初対面の女性の歳なんて分かる訳ないし・・。
「う〜ん、リエさんが21だから・・・45歳位かな?」
「ブ〜!外れ!」
「じゃ、40?」
「ブッブ〜!はい、失格です」
「え〜、じゃ・・もっと若いってコト?」
「・・逆よ、ぎゃく!もっと上なの、あの人!」
「上?上って・・いくつなの?本当は」
「50よ、もう」
「え〜?!50歳?」
「信じらんないよ、50だなんて!」
「本当だよ、私はお母さんが29歳の時の子供だからね」
50って事は、うちのお袋よりも年上なんだ・・とボクは心底驚いてしまった。
どうするよ・・・お袋さん!
「若いんだね、リエさんのお母さん」
「違うのよ、一生懸命なの、若づくりってヤツ・・」
「でもさ、あんなに美人だったら、リエさんも自慢のお母さんなんじゃない?」
一瞬、リエ坊の顔が曇って、ボクはしまった・・と後悔した。
「ごめん、オレ・・」
「ううん、いいのよ。アイツも言ってたけど、仕方ないじゃん?見ちゃったものはさ」
「ショックが大きかったってのは事実だけどね」
いいの、もう・・リエさんは氷の入ったグラスに、白い陶器のポットから綺麗なルビー色の液体を注いだ。
「名前は知らないんだけどね、私の好きな紅茶なの・・いい?アイスティーで。」
「勿論、頂きます」
アイスティーは香り高くて美味しかった。
リエ坊も、静かに両手でグラスを抱えて飲んでいた。
窓の外は、青空と緑、白いテーブルと椅子、バラのアーチ・・・。
ボクの周りには今まで経験した事の無い、上品で静かな時間が流れていた。
「リエさんって、お嬢様なんだ」
「そんなんじゃないよ、たまたま、ってだけの事」
「でもさ、こんな雰囲気、オレ初めてだもん」
「何言ってるの!私だって初めてで楽しかったよ?シンの部屋・・」
リエ坊が心持俯いて、囁いた。
「何もかも初めてで、ドキドキして・・・」
「うん、オレもドキドキだった」
「ウソ!シンは・・余裕の塊に見えたよ?!」
「なに言ってるの、リエさん!こう見えてオレだって・・・」
ここまで言いかけた時に「・・ちょっと、よろしいかしら?」とお母さんがガラス戸を開けて、声をかけた。
「梨恵子さん、ちょっと・・お願い」
「・・はいはい」
リエ坊がやれやれ・・と言った顔で、ソファーを立った。
「あ、シン・・いいわよ、一服してて?」
「うん、有難う」
リエ坊が奥に消えて、ボクは応接セットのテーブルに置かれた大理石の灰皿を見つめた。
複雑な模様を浮かべたその灰皿は、我が家の重いだけのガラスの灰皿よりも・・やっぱり立派だった。
「はぁ〜、違えば違うもんなんだな・・」ボクは何故か可笑しくなって、1人で笑いながらセブンスターに火を点けた。
そしてやっぱり・・灰皿に灰を落とすのを躊躇って、また笑った。
暫くの間、ボクは一服しながらソファーに座っていた。
突然、ガチャっと扉が開いてボクは振り返った。
そこには、ブックバンドを下げて、アレ・・?って顔でボクを見る背の高い男の子が立っていた。
「・・だれ?」
「あ、すいません・・小川です、リエさんの大学の後輩で・・」
「ふ〜ん、彼氏?姉貴の」
「え?いえ、彼氏ってワケじゃ・・・」
男の子はそれ以上何も云わずにボクの横を通り抜け、奥のガラス戸を開けて、奥へ行った。
弟さんかな?多分・・。
「・・・いいってば・・」
「そうはいかないでしょ?」
「オレも・・」
奥の台所からは、途切れ途切れに家族の会話が聞こえてきた。
「どうしよう・・」ボクは落ち着かなくなってきた。
いいんだろうか、ボクはここに座ってて。
「シン、お腹空いた?」リエ坊がガラス戸を少し開けて、顔を覗かせて聞いた。
「う〜ん、どうだろ・・リエさんは?」
「うん、お昼食べなさいって、お母さんが・・」
「・・いいの?」
「練習の前に食べとく?少し」
「うん」
ボクの返事を聞いて、リエ坊はまた向こうに消えた。