ノブ ・・第3部
有難うございます・・と、笑顔でさゆりさんは団扇を使った。
「はい、アイスコーヒー」
「嬉しい、頂きます」
さゆりさんは美味しそうに一口、グラスを傾けた。
「少し気になって・・余計なお世話かな?とは思ったんですが」
「うん?」
「・・・ごめんなさい、お風呂場、少しだけお掃除してたんです」
洗濯機の横にかけてあったタオルも一本、ダメにしちゃいました・・・と。
ありゃま、それはそれは・・と、ボクは風呂場を見に行った。
驚いた、中のタイルは勿論、蛇口や風呂桶までピカピカだった。
風呂場のドアを開けたまま、ボクはさゆりさんを振り返って聞いた。
「どうやったら、こんなに綺麗になっちゃうんだ?」
「簡単です、ただ・・少し熱めのお湯をかけて、タオルで力一杯念入りに拭けば湯垢も石鹸カスも落ちるんです」
ひゃ〜、参ったな・・・と、ボクはドアを閉めて椅子に座った。
「きっと、オレが越して来た時よりも綺麗になってるよ、あれは」
「有難う・・でも、そんなコトしなくても良かったのにさ」
「お気を悪く・・なさいました?」
「ううん、違うよ・・・お客さんのさゆりにそんなコトさせちゃったのがね、悪かったかな?って」
「そんな、お客さんだなんて言わないで下さい」
「私は、ノブさんのお傍にはいられませんから・・・何かしたくても」
さゆりさんは、グラスを抱えて俯いた。
「ゴメンな、そんな積もりで言ったんじゃないんだ・・感謝してるんだよ、これでも!サンキュー」
ボクは、さゆりさんから団扇を取り上げて勢いよく扇いだ。
さゆりさんのまだ濡れた髪が、少しだけなびいた。
涼しい、嬉しいです・・と、さゆりさんはやっとニッコリ笑って顔を上げた。
「風呂場を綺麗にしたくて、オレを先に入れたの?」
ボクは不思議に思って聞いた。
さゆりさんは・・風呂場の惨状を知らなかったはずなのに。
「いいえ」
さゆりさんはまた、下を向いた。
「椅子を汚してしまったんです、私・・」
「汚したって?」
「・・・・・」
さゆりさんは何故か言い淀んで、下を向いたままモジモジしていた。
「あ、いいよ、別にさ・・」
「刑事の取り調べじゃないんだから!」
「はい、ごめんなさい、実は・・」
さっき夢中になって、フェラチオして自分もイった時に・・・流れ出てしまったのだと、さゆりさんは言った。
「椅子に、付いちゃったんです、その・・・」
「・・おかしいんです、ちゃんと入れてたのに・・ごめんなさい、ノブさん」
「あは、いいよ・・そんなの」
さゆりさんは、真面目な顔で続けた。
「最初はそれを拭こうと思って、ティッシュとか雑巾を探したんですが無くて・・」
「それで目に着いた・タオルをお借りしたんです」
「そして、お風呂でタオルを洗ってシャワーした後、良く良く見たら・・・」
そうだったのか・・ボクはようやく合点がいって笑った。
「気にしなくていいよ、血なんて拭けばいいんだし・・・風呂場を綺麗にしてくれたのだって、感謝してるんだからさ!」
「でも、タオルが・・・」
「あは、タオルの1本や2本、綺麗なお風呂に入れるんだから惜しくないさ。有難うね、さゆり」
ボクは立ち上がって、さゆりさんを後から抱きしめた。
「余計な事してって、怒ってませんか?」
「何で怒るのさ?感謝するんじゃない?普通は」
良かった・・と、さゆりさんはボクの腕を抱えて、頬を押し付けた。
暫くボクは、後からさゆりさんの濡れた髪の匂いを嗅いでいた。
「何か、どう言ったらいいのか分かんないけど・・」
「さゆりには、世話になりっぱなしだな」
有難う・・と頭にキスをした。
「いいえ・・」
私がしたくてやった事ですから・・と、さゆりさんはボクの腕にキスをしてくれた。
そして続けた。
「私・・・自分でも分かってるんです、立場・・みたいなもの」
「ノブさんには彼女さんがいらっしゃるって知りながら、好きになったんですから」
「2番目、いや恵ちゃんを入れたら3番目かしら」
本当は何番目だっていい、時々でいいからこうした時間が持てれば幸せなんだと言って、さゆりさんはボクの腕を強く抱いた。
さゆりさんは、暫くそのままでじっとボクの腕を抱いていた。
ボクはボクで・・・そんな小百合さんの言葉にどう答えていいのか分からずに、やっぱり抱きしめたままだった。
「さ、ではそろそろ・・」
さゆりさんはボクの腕をゆっくりと解いて、立ち上がって振り返った。
「これ以上いたら・・本当に練習のお邪魔になっちゃいますもんね」
「私、ホテルに戻ります」
「さゆり・・・」
「ノブさん、練習・・頑張って下さいね?!」
きっと他のメンバーさん、期待してますよ?ノブさんに・・・と言いながら、ニコっと微笑んで抱きついて、ボクの胸で言った。
「私のコトは気にしないで下さい」
「大丈夫ですから・・」
ボクは何も言えずに、強くさゆりさんを抱きしめた。
「有難う、さゆり・・」
自分でも間抜けだな・・と思ったが、それだけ言うのが精一杯だった。
さゆりさんはボクの頬にキスしてから、身支度をした。
「あ、送って行くよ・・ホテルまで」
「いいえ、大丈夫です」
来た時と同じ姿で、さゆりさんは玄関でサンダルをつっかけて振り返った。
「ノブさん?」
「なに?」
「大好きです・・」
そう言いながらさゆりさんは、ボクを強く抱きしめてからドアを開けて出て行った。
ボクは・・ゆっくりと閉まるドアを眺めていた。
「さゆり」
ボクは台所の椅子にドスンと腰を落として、天井を眺めた。
立場か・・ボクはさゆりさんの一言を反芻した。
彼女がいても、恵子のコトが忘れられなくても・・いいってコトか?
でも、本当にいいんだろうか、それで。
自分だったらどうなんだろう・・ボクは考えた。
さゆりさんには恋人がいる・・その人とはセックスもしている。でも、ボクのコトも「好き」と優しく迎え入れてくれたとしたら?
じゃ、恭子だったら?
彼女にはボクより前に知り合った恋人がいて、たまたま知り合ったボクにも・・優しくしてくれた。
そして「アンタが好き・・」と言ったら?
「やだな」
急に心にさざ波が立って、ザワザワと落ち着かない気分になってしまった。
ボクは立ち上がって冷蔵庫を開けて、缶ビールを開けた。
ゴクゴクとそのまま一気に半分ほど飲んで、ベッドに横になった。
「分かんないよ・・・」
ボクは、薄暗い天井を眺めながら呟いた。
特訓
天井を眺めてても、ため息しか出て来なかった。
ボクは起き上って煙草に火を点けた。
「どうしようもない、か・・」
ボクは、フィルターギリギリで燻ぶっていたセブンスターを灰皿に押し付けて、台所に戻りアイスコーヒーをグラスに満たした。
考えたって、悩んだって仕方ない。ボクは恭子が好きな事には変わりなない・・だが、さゆりさんの存在も大きくなってしまっている。
「仕方ないじゃん!」
ボクはわざと声に出して、アイスコーヒーをガブ飲みした。
「練習やらなきゃ」
モヤモヤした気持ちを抱えてたところで、きっと何も解決はしないんだろう・・。



