ノブ ・・第3部
「さ、腹が減っては何とやらだから、まずご飯行かない?」
「ノブさん、私、作りましょうか?お夕飯」
一瞬、ボクは逡巡した。
ここで朝ごはんとはいえ、今まで台所を使った女の子は恭子だけだったから。
「ううん、外に行こう。ここ何にも無いからさ・・」
「はい、分かりました」
さゆりさんがサンダルをつっかけて、重いドアを開けた。
ボクも続いて外に出て、ドアに鍵をした。
「うわ、暑い!」
「はい、蒸しますね、やっぱり」
ボクの部屋のクーラーもそれなりに頑張ってたんだな・・って事が肌で分かる位に、外は蒸し暑かった。
アパートを出たボクらは、すずらん通りを三省堂とは反対方向に歩いた。
「さゆりは何食べたいの?」
「私は、何でもいいですよ、ノブさんは?何を召し上がりたいんですか?」
「う〜ん、す早く美味しく・・食べられるヤツ!」
「あら、随分難しいオーダーですね」
「だって時間無いからさ」
そうですね、この辺だったら・・と、さゆりさんは立ち止まって考えてくれた。
「そうだ、美味しい冷し中華はいかがです?ツルっと食べられますよ?!」
「いいね、冷しか・・うん、それにしよう!」
じゃ、ここをまっすぐです・・と、ボクらは並んで歩いた。
「嬉しいです、ノブさんとこうして歩けるなんて・・」
「そうだね、こんな風に歩いたの初めてだもんな」
「はい、まるで恋人同士みたい!」
さゆりさんが、右手をボクの左手に絡めてきた。
「嫌じゃないですか?ノブさん・・」
「ううん、嬉しい」
良かった、振り払われたらどうしようって思っちゃいました・・と、さゆりさんは笑顔で言った。
「もうすぐです、良く行ってたお店なんですけど・・私は美味しいと思います」
「あはは、若女将の舌は信用してるさ」
「あ、その頃はまだ、女将じゃありませんでしたけど」
ははは・・と、ボクらは笑いながら黄昏のすずらん通りを歩いた。
「あ、ここ・・・ですけど、え?!閉まってます?」
「どうしよう、お休みだわ」
店の鍵のかかったガラス戸の向こうには、定休日の札が下がっていた。
さゆりさんはガッカリした顔で、ボクを見上げた。
「ごめんなさい、まさかお休みだなんて」
「仕方ないよ、さゆりのせいじゃないしね!」
「じゃ、もう少し歩くけど、オレが行った事のある店にする?」
「はい、済みません。まさか・・・」
「いいさ、気にすんなって!行こう」
今度は、ボクがさゆりさんの手を引いた。
「もうちょっと先なんだけど、その店も美味しいんだよ!」
「そうなんですか?良かった」
「ノブさんのお勧めは?」
「・・叉焼麺に炒飯と餃子、広東麺」
「え?!」
立ち止まったさゆりさんは、ボクの顔をまじまじと見ながら言った。
「それ・・・一度に、召しあがったんですか?」
「え?まさか!」
「今までに2回、行った事があるんだけどね、その時にそれぞれ食べたんだよ」
「そうですよね、一度には、さすがにノブさんでも無理ですよね」
あ〜、ビックリしちゃいました・・と、さゆりさんは笑った。
「でも、ほんと美味しかったよ」
「はい、楽しみです」
程なく、角の中華料理屋が見えてみた。
「良かった、看板に電気点いてるから大丈夫だね!」
「はい、ホっとしました」
店の中に入ると、やはり食事時という事もあって混んでいた。
「カウンターでいい?」
「はい」
ボクらはカウンターに座った。
すると早速、例の忍びの女の子が伝票片手に現れた。
「ご注文は?」
「あ、この間は有難う!お陰で楽になったよ」
「そ、良かった。で?!」
「あ、ちょっと待ってね・・」
忍びの子は、スっと向こうに消えた。
「どうしたんでしょ、あの子・・」
「随分、つっけんどんなんですね」
「あ〜、いつもああだよ、あの子は」
でもね、優しいトコもあるんだよ・・と、ボクはアロエのクーリングジェル貰った事を話した。
「・・そうだったんですか、道理で」
「何が?」
「ううん、何でもないです・・さ、ノブさんは何になさいます?」
「オレはね・・」
ボクは迷った挙句、冷し中華の大盛りにした。
さゆりさんは普通の冷し中華、あとはボクの勧めで餃子にした。
ビールも飲みたかったが、この後の練習を考えて止めにした。
「さて、すいま・・・」注文しようと声をあげたら、忍びの子はボクのすぐ後に立っていた。
「・・注文、いい?」
うんでもハイでもなく、伝票に注文を書いてさっさとカウンターに置いて、彼女は消えた。
「何か、今日はおっかない雰囲気だね、彼女・・・」
「そうみたいですね、悪い事しちゃったかもしれません、彼女に」
「え?悪い事って・・・オレ、何かした?」
「いいえ、ノブさんじゃなくて私が、です」
「んん?どういう事?」
「多分、ですけど」
「・・うん」
「あの子、ノブさんに好意を持ってます」
「え〜?!」ボクは大袈裟に驚いてしまった。
「うそ・・まさか、そんなコトないって!」
「いえ、きっとそうです」
「お店に入って来た時から、私に対する視線が鋭かったんです、それに・・」
女同士ですから・・・と、さゆりさんは店の奥の彼女に視線を走らせた。
「う〜ん、良く分かんないけどな・・」
「ノブさん?考えてみてくださいね?」
「2度目に来た時にジェル貰った、って仰ったでしょ?」
「うん・・」
「たった2回会っただけの人、それもただのお客様にそこまで親切にしますか?」
ノブさんが逆の立場だったらいかがです?とさゆりさんはボクの目を覗きこみながら言った。
「そう・・なの?」
正直ボクは分からなかった。
あの時、太腿は酷い状態だったし、見るに見かねてって感じだったのではないか?と、さゆりさんに冷たいお絞りの件も併せて言った。
「そうだったんですか、じゃ・・決定です」
「だって、太腿真っ赤に腫らしてたんだから・・」
「ノブさん?良く聞いて下さいね?!」
「はい」ボクは思わず座り直した。
「女って、好意を持った人には凄く親切に出来るんです」
「だって、その貰ったジェル・・彼女がお金を出して買ったものなんですよ?」
「それをノブさんの太腿が脹れてたからって・・・好意を抱いてなかったら・・」
「お絞りにしたって、同じです」
「このお店、お客様にお絞りはお出してませんよね?!」
「うん、そう言えばそうだね」
きっと彼女は太腿の状態を見て、自分の判断でお絞りを冷して出したのだと、さゆりさんは断言した。
そしてカウンターに両肘をついて、ため息交じりに言った。
「はぁ、言わなきゃ良かったかも・・です」
「どうして?」
「だって・・」
私が言わなければ、ノブさんが彼女を意識する事は無かったでしょ?・・と。
「私の一言で、ノブさんきっとこれから気になっちゃうでしょ?彼女の事」
「いや、まさか!だってオレ、信じられないもん」
「そう言いきれます?」
その時、ドンドン!とカウンターに冷し中華が二つ置かれ、次に餃子も置かれた。
「ごめんなさい、私・・」
「余計なお世話ですよね・・さ、頂きましょう!」
「うん・・」
無言で料理を置いて、話題の彼女はすぐ向こうに行った。
ボクは一瞬、その後姿を追った。