ノブ ・・第3部
正直、ここがあそこが!とダメ出ししてくれるタカダもリエ坊もいなかったから、自分でもいいのか悪いのかが分からなくなっていた。
「・・・いいのかな、こんなんで」
ひと息つきたくて、汗まみれの鉢巻きを外して煙草に火を点けた。
「・・ノブさん?」
「へ?!」
部屋の隅の玄関脇から、さゆりさんがおずおずと顔を覗かせたもんだから、ボクは驚いて火の点いたセブンスターをむき出しの太腿に落としてしまった。
「あ〜っち!!」
「あ、ゴメンなさい!大丈夫ですか?」
さゆりさんはサンダルを脱ぎ捨てて、ボクに駆け寄って来た。
「う、うん・・大丈夫!でも・・」
「・・驚いたよ、いきなりだったからさ」
「ごめんなさい」さゆりさんは笑っていた。
「いつ来たの?」
「はい、ちょっと前です。でも・・」
ピンポン押しても何の返事も無かったから、恐る恐るドアを開けたのだ・・と、さゆりさんは申し訳なさそうに言った。
「そうしたらノブさん・・難しい顔で目を閉じて、一生懸命に練習なさってたから・・」
「邪魔しちゃ悪いかな?って声かけられませんでした」
何だ、声かけてくれれば良かったのに・・・と、ボクは半分照れ隠しに笑って拾い上げた煙草を吸った。
古いフローリングの床に、小さな焦げが付いた。
「・・でも、さゆり」
ボクは目の前に立つさゆりさんの姿に、今度は・・・本当に照れてしまった。
デニムのミニスカートにタンクトップ、頭には洒落たサングラスを刺して微笑むさゆりさんが、そこにはいた。
ミニスカートからは日に焼けていない足がスラっと伸びていて、思わずボクは目を奪われた。
「カッコいい」
「いやです、どこ見てるんですか?ノブさん」
さゆりさんは手に持った小さなポーチで太腿を隠そうとしたが、その仕草がボクには一層色っぽく見えた。
「だってさ、オレ・・昨日のスーツか着物か、ジャージ・・あとは普通のブラウスっていうの?そのさゆりしか知らないから」
かっこいいね・・・とボクはバカの様に呆けて言った。
「私だって、普通の女の子なんですよ?」
「それを思い出させてくれたのは、ノブさんじゃないですか」と言いながら、さゆりさんはボクを抱きしめてくれた。
「ノブさんこそ、素敵でした」
「難しい顔して必死に練習してて、カッコ良かったです!」
さゆり・・・ボクは自分が汗まみれなのも忘れて、さゆりさんのお腹に顔を押し付けた。
「ふふ、汗ビッショリ」
「あ、ゴメン、オレ・・」
いいんです、好きな人の汗はちっとも嫌じゃないですから・・と、さゆりさんはボクの頭のてっぺんにキスしてくれた。
こうやって練習するんですねと、さゆりさんはボクの即席練習セットを見て言った。
「いや、他の人がどうやってるかは知らないけどさ、今家で出来る練習って、これ位なんだよ・・」
「これが、スティック?」
さゆりさんがスティックを持って、しげしげと眺めて言った。
「もう手に持つ所は、随分黒くなってるんですね」
「うん、必死で握るからね」ボクは笑いながら言った。
「さゆり、会合は?」
「はい、5時には終わりました」
「道はすぐに分かった?」
ボクは、もう1つのパイプ椅子をさゆりさんに勧めて言った。
さゆりさんはキチンと膝を揃えて椅子に座り、ボクらは向かいあう形になった。
「はい、ノブさんの描いてくれた地図のお陰ですぐに分かりました」
「でも・・・」さゆりさんが部屋をグルっと見渡した。
「はは、ボロっちくて驚いた?ここ」
「いいえ、天井が高くてガッシリした造りで・・・古いビルディングって感じですね」
素敵です・・と今度はボクを見て言った。
「そうかな・・窓のサッシは重い鉄だしさ、クーラーは音が凄いし・・」
「でも、ノブさん、何でも新しいモノがいいとは限りませんよ?!」
ま、それはそうだけどね・・と、ボクは苦笑いするしかなかった。
「コーヒーでも、飲む?」
「あ、私、やります」
「いいよ、お客さんなんだから座ってて!」
ボクは立ち上がってヤカンを火にかけた。
お湯が湧くまでの間、サーバーを洗ってドリップに紙のフィルターと豆を入れた。
「もうすぐだからね・・」
「はい、有難うございます」
ヤカンがシュンシュン湯気を出し始めて、ボクはサーバーにギッチリ氷を詰めて、豆にお湯を落とした。
ピキピキン・・と氷が弾ける音が聞こえた。
「お待ちどう様・・」
「ごめん、ストロー無いや」
ううん、いりませんから・・と、さゆりさんはアイスコーヒーを一口、飲んだ。
「美味しい・・いい香りですね、モカ?」
「うん、モカ。良く分かったね!」
私、モカとブラジルが好きなんです、コーヒーは・・と、さゆりさんは大き目のグラスを両手で抱えて微笑んだ。
「ノブさんもモカ、好きなんですか?」
「あ・・う、うん・・好きだよ」
何気ないさゆりさんの問いかけに対する咄嗟のボクの答え方は、きっと不自然だっただろう。
でも、さゆりさんはそれには触れなかった。
さゆりさんはゆっくりと窓の方を見て、言った。
「もうすぐ、夕暮れですね・・・」
「少しは、涼しくなるかしら?!」
「もう、そんな時間?」
「道理で、腹減るはずだな」
「ノブさんは時計いらずですね」
なんで・・?とボクの間抜けな問いかけに、さゆりさんは笑った。
「だって・・・」と、笑いながらさゆりさんは続けた。
「ノブさんの腹時計、正確なんですもん」
そう言われて見れば、時計の針は7時近くを差していた。
確かにボクは人一倍の腹っぺらしだから、その意見に異存は無かった。
「うん、腹の減り具合で大体の時間は分かるけど」
「さゆり・・・ご飯、どうする?って言うか、いつ帰るの?」
「帰るのは、明日にします。ホテルもまだ泊れますし」
「明日はノブさん、練習なんですよね?」
「うん、午後からだけど、しごかれるんだろうな、また」
それまでご一緒しては、迷惑ですか?と、さゆりさんは心持俯いて座り直しオズオズと言った。
膝小僧が緊張した様にピチっと閉じた。
「ううん、迷惑な訳ないじゃん!嬉しい。でも・・」
「オレ、まだまだ練習しなきゃいけないから、ごめん、ホテルには行けないや」
「はい、分かってます」
「ここで、練習見てたら・・いけませんか?決してお邪魔はしませんから」
「いいけど、何か恥ずかしいね、自主トレ見られるのって」
「・・そうですよね、私ったら図々しいですよね」
「いいです、少ししたら私、ホテルに帰ります・・」
そう言って俯いたさゆりさんがとても寂しそうに見えて、ボクは慌てて言い直した。
「あ、いいよ、別に見てたってさ。ちょっと照れくさいけど」
「それに会合が終わったら来て?って言ったのはオレだし・・」
「あ、でも練習見てて笑わないって約束出来る?」
「そんな、笑うなんて・・私、絶対に笑いません!」
顔を上げて真剣な面持ちで、真面目に言ったさゆりさんが可笑しくてボクは逆に笑ってしまった。
「あはは、そこまで決意する程のコトじゃないよ、おかしいね・・・さゆりは」
「だって・・ノブさんのお邪魔になったら嫌ですから」
有難う、さゆり・・と、ボクは立ち上がって、さゆりさんのおでこにキスして言った。