ノブ ・・第3部
私は会議が終わる夕方には戻ります。伸幸さんさえ良かったら・・。
ご予定があるか、お帰りになりたかったらご遠慮無く、ね?!
部屋はオートロックですから、出る時の施錠はいりません。
小百合
追伸です。お腹が空いたらルームサービスを頼んで下さいね。」
「・・・」
ボクはメモを読みながら、ソファーにストンと座り込んでしまった。
「さゆり・・・」
正直、ボクは困ってしまった。
寝起きの頭でもさゆりさんの気持ちは嬉しかったし、ボクを起こすまい、休ませてあげようって気持ちも良く分かった、でも・・・
明日の練習に備えて自主トレはしなきゃいけない、そのためには、もう一晩さゆりさんと一緒にいるコトは無理だった。
「さゆりを取るか、バンドを取るか?」
その時、お腹がグ〜っと鳴った。
「頼んじゃおうかな?」
空腹に負けたボクは、メニューを見ながらホテルの電話の受話器を上げた。
「はい、ツナカワ様・・ルームサービスでございます」
「あの、ここに書いてある朝食セットって、まだ間に合いますか?」
「はい、洋食と和食、どちらもご用意出来ます」
「じゃ洋食セットで・・スクランブルにベーコン、トーストでお願いします」
「はい、かしこまりました。少々御待ち下さいませ」
ふ〜、ルームサービスか・・緊張してしまったな。
カッコ付けてスクランブルなんて言っちゃったけど、目玉焼きの方が良かったかな・・と、ボクは自嘲して一服した。
「さて、ご飯は頼んだし・・」
ボクは洗面所に行って、顔を洗って歯磨きした。
サッパリしてガウンを脱いで、自分の服に着替えて改めて考えた。
「どうするか」
考えても結論は一緒だった。
正直・・・もう一晩、さゆりさんと一緒にいたいスケベなボクもいるのだが、自主トレをサボるわけにはいかないだろう!という真面目なボクもいた。
ボクは、朝食を食べたらアパートに戻る事に決めた。
暫くして「ピンポ〜ン・・」と呼び鈴がなり、ボクは部屋のドアを開けた。
「お待たせ致しました」
昨夜と同じ制服を着たルームサービスが、朝食を運んで来てくれた。
「では、ごゆっくり・・」
「はい、有難うございました」
早速ボクはスクランブルエッグとベーコンに塩を振りかけて、トーストに軟らかくなってるホテルの名前入りのバターをいっぱい塗って頬張った。
初めて食べたホテルの朝食は、美味しかった。
「こんなリッチな朝飯なんて・・」
重い銀製のポットに入ったコーヒーも香り高くて、ボクは・・さゆりさんの心遣いに感謝した。
「・・そうか、そうすれば」
二枚のトーストと卵料理、サラダにコーヒーを全部平らげて、ボクは思い付いたコトをメモに残した。
「 小百合へ
お蔭様で十分に休む事が出来ました。ありがとう!
しかし、バンドの練習があるので部屋に帰ります。
夕方、会議が終わってもしも時間があったら、僕のアパートに来て下さい。
明日の練習にそなえて、多分、一晩中自主トレしてるはずですから。
下に簡単な地図をかきました。分からなかったら電話して下さいね! 伸幸 」
これでいい・・ボクは我ながらどうしようもないスケベだなと呆れたが、さゆりさんとの時間に未練があるのも事実だった。
ボクは食べ終えた朝食のテーブルを廊下に出して、ホテルの部屋を後にした。
涼しいホテルの玄関を一歩出ると街の喧騒と暑い空気にむせ返りそうになったが、ボクはアパートへの道を急いだ。
「早く帰ってスコア見ないと・・」
明日の練習ではきっとまた、ブっ倒れるまでしごかれるんだろうから。
アパート
アパートの部屋は、とんでもない暑さでボクを迎え入れた。
まるで「オレを放っておいてドコ行ってたんだ?!」とでも言いたげに・・。
ボクは重い窓を全開にして、クーラーのスイッチを入れた。
ホテルからの道々かいた汗を流そうとボクはシャワーを浴びた。
シャワーを終えて、そしてようやく暑い空気が出て行ったのを確認して窓を閉めた。
「よし!」
新しいTシャツと短パンに着替えたボクは、そのままになってた即席の練習スペースに座って、スコアを眺めた。
「取り敢えず、ホテル カリフォルニアとフォクシィ レディだな・・・」
ボクは一昨日の様にタブを見ながら歌って叩いた。
ホテル カリフォルニアはまだ、メロディーも歌詞も覚えていたから良かったのだが、次のフォクシィ レディの方はまともに聞いた事すら無かったもんだから・・・完全にお手上げだった。
「ふ〜、ダメだ・・休憩しよう」
ボクはアイスコーヒーを淹れて、一服した。
そう言えば、このコーヒー・・・海に行く日の朝に、恭子が買って来て淹れてくれたんだよな・・とボクは恭子の笑顔を思い出した。
少し酸味の強い・・でも美味しいコーヒーは、豆の袋にモカと書いてあった。
「そうなんだ、モカってこういう味なんだ」
ひと時僕は、バンドもさゆりさんも忘れて、恭子との慌しくも楽しかった旅に思いを馳せた。
そしてそれは、ほんの数日前の事なのに遠い思い出のように感じられて・・ボクは慌てた。
「オレ、どうなっちゃってるんだ?!」
ボクは旅の後の墓参りからこっち、変わってしまったんだろうか・・。
でも、恭子に対する気持ちは変わってはいないはずだ・・とボクは心の中を転がってた小石を探した。
突然、ボクの中に新たに飛び込んできたさゆりさんという女性・・恵子の同級生で少し変わった性癖で、歴史ある旅館の女将という宿命を背負った女性・・・。
「オレ、ほんとはどっちが好きなんだ?」
両方?いいのか?そんなの・・ボクはアイスコーヒーのグラスを抱えたまま、考えてしまった。
「ジリリ〜ン!」突然鳴った電話のベルに、文字通り飛び上がる位にボクは驚いた。
「さゆり・・?」
ジリリ〜ン・ジリリ〜ン・・ボクは、暫く鳴りっぱなしの電話を見つめて動けなかった。
ボクと電話のにらめっこは、電話の勝ちだった。
ボクは恐る恐る・・受話器を上げた。
「・・もしもし?」
「何やってんだよ、いるんならさっさと出ろよ!」
「へ?」
兄貴の、懐かしい声だった。
「どうしたの?」
「バカ、それはコッチの台詞だ!」
「・・何で?」
どうやら昨日、久々に帰京した兄にお袋さんがボクの不審な行動を報告したらしい。
あの子、最近変なのよ?彼女と京都に行ったと思えば、帰ってきても慌ててすぐに下宿に戻っちゃってね?!一体、何やってるのかしら・・・ってトコか。
で、昨日今日と何度かかけてたらしいのだな、兄貴が。
「で?何やってんだよ、お前」
「うん、オレ、バンドやる事になっちゃってね」
「・・それで最近、忙しくてさ」
「バンド?お前が?」
ギャハハ〜と電話の向こうで兄貴が大笑いした。
「お、お前・・気は確かか?ギターも満足に弾けなかったくせに!」
「余計なお世話だよ、そんなコト」
「オレね、ドラムスなんだ・・」
「ほほ〜、ドラムスね・・・お前って、リズム感良かったっけか?」
「結構、褒められてるんだよ?これでもさ・・」
「へ〜、見てみたいもんだな、お前のドラム」
そうだ、いい機会だ・・とボクは閃いた。