ノブ ・・第3部
「これは?何て言う料理?」
「ミラノ風カツレツです」
「へ〜、随分薄いトンカツだね・・」
さゆりさんはそんなボクの台詞にクスクス笑いながら、フォークとナイフで、その薄いミラノ風とやらを切り分けてくれた。
「ノブさん、これ」
「トンカツじゃなくて、ビーフなんです」
「え、そうなの?牛のカツ?」
「はい、牛です・・」さゆりさんは、笑いながらお皿を勧めてくれた。
「そっか、牛なんだ・・あ、美味しい!」
トマトソースと、カツと衣の間のチーズが混ざり合って、ミラノ風はビックリする位美味しかった。
初めてのミラノ風カツレツとバゲットをパクパク食べるボクを、さゆりさんはニコニコしながら眺めていた。
「食べないの?」
「はい、頂きます・・」
さゆりさんも、小さく切ったカツを食べた。
ボクはいやしいかな・・とも思ったが、隣のビーフシチューにも手を付けた。
こちらは大きなビーフがゴロゴロしていて、人参とジャガイモと、緑のカリフラワーみたいなのがブラウン色のソースに色どりを添えていた。
お肉はフォークで押しただけでホロホロと崩れて、口に入れたら・・これまた溶ろけるほど柔らかかった。
「こっちも美味しいね!」
「良かった、喜んでいただけて」
「この緑色のは何?」
「それはブロッコリーです」
「形はカリフラワーみたいなのに、緑色なんだね・・」
「同じ花キャベツの仲間らしいですね、元々は」
「そうなんだ、物知りだな、さゆりは!」
「何言ってるんですか、ノブさん・・」
こう見えても女将なんですからね?!食材のお勉強もしてるんですよ・・と、さゆりさんはボクを嗜める目で、笑った。
「そうだよね、へ〜、ブロッコリーって言うんだ、美味しい」
「こっちのパスタも、どうぞ?」
「うん・・」ボクは、黒っぽい小さいのが混ざった細いスパゲッティみたいなのに、フォークを巻き付けた。
「あ、ニンニクが効いてる・・美味しいね、これも!」
「アンチョビとニンニクのスパゲティーニです・・」
「スパゲッティーニ?」
「はい、スパゲッティよりももっと細いパスタですね」
「ほ〜」
これも、ボクは初めて食べるものだった。
塩味のアンチョビとニンニクの風味が美味しくて、夢中になって食べた。
牛のミラノ風カツにビーフシチュー、アンチョビのスパゲッティーニ・・・結局ボクは、4分の3位食べてしまった。
さゆりさんは終始ニコニコしながら、少しずつ食べた。
「あ、いけない!」
「ん?なに?」
「忘れてました・・」
さゆりさんが慌てて冷蔵庫を開けて、ワインを出した。
「これ・・冷してたんです。」
「ワイン?」
「はい、私の好きな銘柄なんですけど・・」
フェヴレ・シャブリのビンテージです・・・とさゆりさんはコルクを抜いた。
「冷し過ぎちゃったかもしれません、ごめんなさい」
「え・・もう、ダメなの?」
「いえ・・ダメにはなりませんけど、冷た過ぎると香りが飛んじゃうんです」
「そうなんだ、難しいね、ワインって」
はい・・と言いながらさゆりさんは、小振りのワイングラスにワインを注いで、少しクンクンした後・・飲んだ。
「・・良かった、大丈夫でした」
「ノブさん、ワイン・・お好きですか?」
「いや、好きかどうか?言える程飲んだコトないもん」
「でも、飲んでみたいな・・さゆりの好きなワインなんでしょ?」
「はい、美味しいと私は思います!」
ボクも同じグラスで、飲んでみた。
「へ〜、あんまり甘くないんだ・・・でも・・」
「葡萄の香りがほんのりしてさ、キリっとしてて美味しいね、これ!」
シャブリって言うんだ・・とボクはワインボトルのラベルをしげしげと眺めた。
「親父が飲んでたのは、確か・・モーゼルワインって言ってたな」
「あっちのが甘かったかも」
「モーゼルはドイツですね」
「でも、ドイツワインでも甘口と辛口があるんですよ?!」
「そうなの?」
「はい、多分、お父様のお気に入りが甘口の白だったんでしょうね」
「え、なんで白って分かったの?オレ・・一言も言ってないのにさ・・」
「ドイツは・・・葡萄の栽培には寒くて向いてないんです」
「ですから、濃い色の品種は気温と日光が十分じゃないとダメなので、ドイツでは寒さに強い皮の色が薄い品種が中心なんですよ・・・」
ですから、ドイツは赤よりも白ワインが多いんです・・・と、さゆりさんは教えてくれた。
「そうか、皮の色って品種によって違うもんね」
「例えば巨峰とマスカットの違いみたいなの?で、出来あがるワインも変わるんだね?!」
「はい、そう思って頂いていいです」
「でも、赤ワイン用の葡萄って巨峰よりも葡萄色が濃くて、一見すると真っ黒に見えるので黒葡萄って言われるんです」
そうなんだ・・・ボクはグラスを透かして見ながら言った。
「凄いね、ワインって。奥が深いんだな・・・」
「ちゃんとしたソムリエは、もっともっと詳しいですよ?」
「ソムリエって?」
ソムリエは分かりやすく言えばワイン博士です、難しいんですよ?ソムリエの資格試験に合格するのは・・と微笑みながら、さゆりさんはシャブリを注いでくれた。
「そうなんだ・・何でも一人前になるのは大変って事なのかな」
「はい、そう思います、私も」
「ノブさんも大変なんじゃないですか?一人前のお医者様になるのは」
「だよね、きっと」ボクはワイングラスを見つめて考えた。
ボクは・・・どんな医者になるんだろうか。
「きっと・・」
「いいお医者様になると思いますよ?!」さゆりさんが言ってくれた。
「そう?どうして・・そう思うの?」
「だって、ノブさんは優しいから・・」
さゆりさんはそう言うとグラスを置いて、サラダを取り分けてくれた。
オレって優しいのかな・・ボクは小さく自嘲した。
「優しいって、どういう事なんだろ」
「私に、あの時言って下さったでしょ?」
「嬉しかったです、ノブさん、一言も私を責めなかったから・・」
また小石が転がって、ボクは胸の痛みを覚えた。
でも、オレって、そんなご立派な男じゃないんだよ?!本当に優しい人間だったら恋人に黙って他の女の人と・・・ボクは心の中で独りごちた。
「人の体は勿論、心の痛みも分かるお医者様・・・」
「そんなお医者様になれると思います、ノブさんは」
「うん、出来れば・・そうなりたいな」
ボクはこの話題を切りあげたくて、サラダと残りの料理を平らげた。
冷えたワインで流し込む様に・・・
「ふ〜、ご馳走様でした!」
「美味しかったよ、料理もワインも・・有難う、さゆり」
「良かった、喜んで頂けたら嬉しいです」
「さ、御片付けしましょうか」
さゆりさんはワインのボトルとグラスをホームバーに置いて、空いた皿の上にナプキンを被せて折りたたみ式のテーブルをゴロゴロと廊下に出した。
ボクは調子に乗って飲んだシャブリに酔ってしまったんだろう・・フラフラと窓際のソファーに行き深く腰を下ろして、食後のコーヒーを飲んで一服した。
「美味しいワインに、酔っちゃったかな」
「ノブさん、1つ聞いてもいいですか?」
「うん、なに?」
「気になってたんですけど、太腿のアザ?一体・・・どうして?」