リンコ
それからの毎日は、悠介にとってはある意味、新婚生活のように幸せな日々が続いた。
朝はりんこの声で目覚め、夜はりんことの語らいの後に眠りに就く。仕事から帰っても、次の日会社に行くまでひとっ言も喋らない――そんな毎日だったことがまるで嘘だったかと思えるほどだ。
仕事から帰ると悠介は、りんこを相手にいつまでも、そして取り留めもなく雄弁によく喋り、それをまたりんこも頷きながらよく聞いていた。
1ヶ月くらい経った頃だった。
「ゆ う す け お き て……あ さ よ…」
その朝もりんこの声で悠介は目覚めたが、りんこの様子がおかしいのにすぐに気付いた。
「りんこ、どうした? どこか具合いでも悪いのか?」
「く、苦しい…お願い…た、助けて…」
「えっ! りんこ、りんこ、どうすればいいんだ? りんこ!」
悠介は鉢を両手で抱え、揺すりながら必死で問いかけた。
「悠介、そんなに…揺すらないで…私、折れてしまう…」
「あっ、ごめんよ、りんこ。僕うっかりして…」
りんこに言われて気付いた悠介は、持っていた鉢をそうっと元の場所へ置き、りんこの次の言葉を待った。
「栄養をちょうだい…栄養が…足りない…の」
「栄養って……水じゃないのかい?」
「悠介は…水だけ…で…生き…られる?」
「確かに、僕は水だけじゃあ生きられない。だけど君は人間じゃない。花だろ? 花の栄養って?」
悠介はこれまで植物を育てたことがまるっきりなかったから、栄養と言われても、何をどうしたらいいのかさっぱり分からなかった。
苦しそうに話すりんこに教えられ、花屋に売っているという、アンプル状の栄養剤を買いに走った。無論、仕事は仮病を使って休んだ。りんこの生きるか死ぬかの一大事に、仕事なんてしてられない! それが悠介の心境だった。
しかし、これまで一度たりとも仮病はもちろんのこと、病気で休んだことすらなかったから、社内では思いの外大勢の人が心配していた。
そんなこととは知らない悠介は、栄養剤を買うと急いでアパートに戻り、花屋で教えられた通りに、りんこの鉢にその栄養剤のアンプルの先をハサミで切って、土の中へそっと射し込んだ。
「どうだい、りんこ」
心配そうにじっと様子を見守る悠介。
「あぁ、気持ちいいわあ。生き返る気がする。ありがとう悠介」
しばらくして、ようやくそう言ったりんこに、悠介は心底ほっとした。
「良かったー。どうなるかと本当に心配したよ、りんこ。でも元気になって良かった」
ほっとした拍子に、自分がずる休みしたことを思い出した悠介は、堪らなく後悔の念に駆られた。もとより誰より真面目な青年なのだから。
しばらく会社での仕事を思って沈んだが、しかしやっぱりりんこの方が大切だ。そう思い直した悠介は、
『そうだ! せっかく休んだんだから、今日はゆっくりりんこと過ごそう』
そう決めて、りんこを連れてリビングに移動した。
リビングへ行ってりんこをガラスのテーブルの上に置くと、悠介はソファにゆったりと掛け、テレビのリモコンを手に持って録画しておいた洋画を再生させた。
「りんこ、二人でこの映画を観ようよ。これは恋愛映画だから、つい独りで観るのが淋しくって観ないまましまっておいたんだ。君が来てくれたからやっと観ることができるよ」
悠介の言葉にりんこが微笑んだ。もちろんそれは、悠介にそう見えたというだけなのだけど……。
映画を観ている時にりんこが言い出した。
「ねえ、悠介。どうして私がここへ来たか分かる?」
「どうしてって……、僕が花屋で君を買ってきたからだろう?」
「じゃあ、どうして私を買ったの?」
「うーーん、どうしてって、確かあの時、妙に君のことが……っていうか、あの時のリンドウの花が気になったんだよ」
「それがどうしてだか分かる?」
「えぇー、どうしたんだい? 参ったなぁ、どうしてと言われても……うーーん。降参だよ。教えておくれ」
「ふふっ、実はね、あの時悠介は自分が私を見つけたと思ってるでしょ?」
「あぁ、そうだよ」
「本当は違うの。私が悠介を見つけたのよ」
「えぇっ? それはどういう意味だい?」
「あの時、本当は歩いてくる悠介を見つけて私、一目惚れしてしまったの。信じないかもしれないけど、あなたがとても淋しい人だと感じるのと同時に、私はあなたに恋をしてしまったみたい。だから一生懸命『私を連れてって!』って祈ったの。そしたらあなたが私を見てくれた。嬉しかったなぁ、あの時。――私の祈りは届いて、あなたは私を連れて帰ってくれた。私たちは結ばれる運命だったのよ。きっと」
「へぇー、そうだったんだ。だからなのか? あの時、なぜか妙に気になったのは……。これまで一度だって、花を買おうなんて思ったこともなかったのに、自分でも不思議だったんだ。そうか、そうだったんだ」
悠介は『やっとわかった!』と言う思いで、何度も頷いていた。
「私ってね、悲しんでいる人を愛してしまう運命なの。あの時悠介、とても悲しんでいたでしょう?」
「あぁ、悲しんでいたと言うか、また家に帰ってもどうせ独りなんだよなぁーって思ってた」
「で、今はどう?」
「もちろん幸せだよ!」
テレビの中で、映画の主人公の男性が相手の女性に愛を囁いている。それを聞いてりんこが言った。
「ねえ、悠介。それじゃあ私のこと愛してる?」
「もちろんだよ!」
「それだけじゃイヤ。ちゃんと言ってぇ」
りんこは甘えたように言う。
「わかったよ、りんこ。りんこ、愛してるよ」
「悠介、私も愛してるわ」
悠介はたまらなく抱きしめたくなり、植木鉢を胸に抱えて、その花に頬ずりをした。
それからは、食事を作る時には台所へ、風呂に入る時にはバスルームへ、そしてトイレにさえも、悠介は自分が動く度に行く先々にりんこを連れて行った。