リンコ
たまたま通りがかった花屋の店先で、悠介は何故かその花が目に留まり、妙に心を惹かれた。
「なぜだろう?」
しかし深く考えることもなく、悠介はその花を買って帰った。
直径十五センチばかりの植木鉢に植えられたその花はまだ小さくて、花自体は一つしか咲いていない紫のリンドウだった。
その花を悠介は寝室のベッドの脇に置いて、夜寝る時には「おやすみ」と声を掛けて眠った。
一人暮らしの悠介には、家に帰っても誰も話し相手がいない。年齢二十四歳、本来なら青春真っ盛りのはずが、悠介は人一倍奥手な上に恥ずかしがりやで、これまで女性と付き合ったことすらない。言わば哀れな独身男性だった。
しかし仕事は真面目で、それなりに思いやりのある男だったから、社内の評判は決して悪くはないし、それとなく誘いを掛けてくる女性もいなくはないのだが、何せ臆病者だから、上手く相手に合わせて相手の希望を叶えるなどという器用なことができないのだ。
両親はすでになく、たった一人の姉が少し離れた所に、すでに所帯を持って暮らしている。
その姉が時々心配して様子を見に来てはくれるが、悠介にとっては、その度に『早くいい人を見つけなさい』とか、『彼女はできたの?』とか言われるので、少々煙たい存在でもあった。
その日も仕事を終えて帰宅した悠介は、まず寝室に入り、服をスーツからジャージに着替え、ベッドサイドのリンドウの花に「ただいま」と声を掛けた。
彼のアパートは、狭いながらも一LDKで、リビングは別にあった。
着替えを終えた悠介はリビングへ向かうと、テーブルの上のリモコンを手に取ってテレビをつけると、夕飯用に買って来た『ほっかほか弁当』の封を切った。
台所に食卓テーブルはなく、キッチンとの境にカウンターが小さく作りつけになっていたが、ほとんどそこで食事することはなく、いつもリビングのソファーに座り、テレビを見ながら小さいガラステーブルの上で食事を広げるのが常だった。
朝はほとんど何も食べずに出勤し、昼は会社の付近の店で定食を食べ、夜は帰りにいつもの弁当屋で弁当を買って帰って食べる。それが悠介の毎日であり、ここ何年も変わらず繰り返されてきていた。
夜、いつもは目覚まし時計を掛けて眠るのに、その日の朝に限って目覚ましが鳴らなかった。そのままだったらきっと悠介は寝坊して、会社を遅刻していただろう。彼は体質的に朝が弱いのだ。しかし、どこからともなく声が呼び掛けた。
「悠介、起きて! 朝よ。悠介」
「んん? ふぁーあ。今誰か呼んだ?」
寝ぼけた悠介は欠伸を噛み殺しながら、誰かの声がしたような気がして部屋の中をキョロキョロと見回した。
「そんなわけないか……。寝ぼけて夢でも見たかな?」
ごそごそ起き出すと、支度をして会社へ出掛けた。そして帰って来た時、またいつものようにリンドウの花に「ただいま」と声を掛けた。すると微かだが、どこからか「お帰りなさい」と声がした。
「えっ?」
悠介は耳を疑った。もちろん部屋には自分以外誰もいない。しかし、確かに声がしたようだったが……。やはり空耳だろうか?
一度病院に行って耳の検査をしてもらった方がいいのかもな。そんなことを考えながら、着替えを済ませ、いつものようにテレビを見ながら食事をし、入浴のあと、眠気に任せてベッドで眠った。