リンコ
それから一週間が過ぎた頃だった。
悠介の直属の上司が、由紀子を伴って悠介のアパートを訪れた。
「あ、ここですよ。山田課長」
「おう、ここか」
山田は、由紀子が指差すドアの表札を確認した。
「――それにしても彼は一体どうしたんだろうねえ? あんなに真面目な奴が一週間も無断欠勤なんてねえ。本当に君、何も知らないのかい?」
由紀子と悠介とのことを噂で聞いている山田は、疑いの眼差しで由紀子にそう聞いた。
もしかしたら、彼女に遊ばれたと知った悠介が、そのショックから休んでいるのではないだろうか? そんな風にも考えていたからだが、由紀子はケロッとした顔で答えた。
「私が知ってるわけないじゃないですか! 私がここに来たのはたった一度だけだし……。変なこと言わないで下さいよ」
「そうか……」
そんなことを話しながら、山田はその部屋の玄関チャイムを押した。
「ピンポーン」
少しずつ間を置いて三度鳴らしてみたが、中からはコトリとも音はしないし、もちろん返事もない。
「もしかしたら、どこかへ旅行にでも行ってるんじゃないですかねぇ。今どきの若い子は、人の迷惑考えない人も多いから」
冷めた口調で、由紀子が相づちを求めるように言う。
「それは君のことじゃないのかね?」
そう言いたいのは山々だったが、そう言えば角が立つと考えた山田は、代わりにこう呟いた。
「そ、そうだろうか? でも、彼がねぇ……」
山田は、万事にトラブルを避けるタイプの人間だった。
「――今日は案内してくれてありがとう。どう見てもいないようだし、仕方ないから帰ろうか。確か彼にはお姉さんが一人いたはずだから、会社に戻ったら電話してみよう」
「そうですね」
そう言うと由紀子は、急に甘えたような声を出して続けた。
「――でもねぇ、課長。もうお昼も近いことだし、ここまで案内して来てあげたんだから、お昼ぐらいはご馳走してくれますよねぇ?」
「えぇっ! ――悪いけどね、君。一応これも業務の一環だし、それより何より、私は、お昼は家内の手作り弁当を食べるんだよ。これがまた旨いんだよ。ワッハッハ。ま、そういうわけだから、外食はしない主義なんだよ。悪いね」
山田はそう言うと、清々したという顔をし、逆に由紀子の方は、横目でジロッと山田に侮蔑の視線を投げつけ、口を尖らせてそっぽを向いた。当然のように会社へ戻るまで、二人の間に会話は生まれなかった。
山田は社に戻ると、すぐに悠介の姉に連絡を入れるつもりだったが、愛妻弁当を食べ、昼休みが終わると次々と仕事に追われ、結局連絡を入れるのを忘れてしまった。一旦忘れると、人の記憶って案外深い所に沈んでしまうものなのか……。次に山田が思い出して連絡した時には、早くも一ヶ月くらいは過ぎていた。
連絡をもらった悠介の姉の川野美代は、
「真面目な悠介が、無断欠勤なんてそんなことをするはずがない! きっと何かあったに違いない」
そう思って慌てて弟の携帯に電話してみたが、電源が切れているのか繋がらない。仕方なく急いで身支度を整えると、嫌な予感に襲われながら弟のアパートを訪ねた。
ドアの外に立ち、気持ちを落ち着かせチャイムを押す。
ピンポ―ン
返事がない。不安がどんどん膨れ上がっていくのをどうしようもなく、次は続け様に押す。
ピンポン、ピンポン、ピンポーン
やはり何も返事はない。
一旦帰って出直そうか……。一瞬そうも思ったが、やはり心配で帰れない。
しばらく待ってみよう――そう決めて、ドアの前に佇んで待ってみた。
何もしないで、ただ待つ時というのは時間が経つのも遅い。それでもかれこれ一時間ほど待った時、隣りの部屋のドアが開き、女性が一人出て来た。たぶんのその部屋の住人だろう。その女性が、ドアの前に佇む美代に怪訝な視線を投げて通り過ぎようとした時、美代は思い切って声を掛けた。
「あのう、すみません……」
その女性がびっくりして振り向いた。
「えっ?」
「すみません。私、この部屋にいる者の姉で川野という者なんですけど……」
「ああ、そうだったんですか」 その女性は少し安心したような顔をした。
「――それが……、弟と連絡が取れなくて困ってるんです。何かご存知ないでしょうか?」
「ごめんなさい。お隣りとはほとんどお付き合いもないので……。でも、そう言えば最近見かけませんねぇ。物音もしないし……。どこかへお出掛けじゃあないんですかあ?」
「それならいいんですが、もう一ヶ月も会社を無断欠勤しているようなんです。弟はそんなことのできるような人間じゃあないんです。とっても真面目な子で。だから何かあったんじゃないかと心配で……」
「なるほど。そういうことですか」
そう言うとその女性は、ちょっと考える風にしてから次の言葉を続けた。
「――だったら、この部屋の鍵を開けて、中へ入ってみたらどうですか?」
「えぇ、そうしたいんですが、私は鍵を持ってないんです。どちらへ行けば合鍵があるかご存知ですか?」
「あっ、じゃあここを管理してる不動産屋さんをお教えしましょう」
その女性は出掛けるところだったんだろうに、わざわざ自室に戻り、数分後には不動産屋の電話番号などをメモした紙を持って、部屋の外で待つ美代の前に現れた。
「はい、どうぞ。ここに電話してみて下さい」
「ありがとうございます。お忙しいところをお引き留めして、本当に申し訳ありませんでした」
メモを受け取った美代は丁寧に礼を言った。
「いいえ、弟さんがご無事で見つかるといいですね。では、私はもう行かなくちゃいけないので、これで失礼しますね」
女性はそう言うと、急ぎ足で廊下を歩いて行った。
「ご親切にありがとうございました」
美代は腰を屈めて礼をしながら、女性の後姿に向かって再度お礼の言葉を述べた。
そして腰を起こすと、早速そのメモの番号に携帯で連絡を入れ、事情を説明して合鍵を持ってきてもらうように頼んだ。不動産屋は案外近くだったらしくて、それほど待つこともなくその男性が現れた。
「失礼ですが、先ほど連絡を下さった川野さんですか? 私はこういう者ですが……」
その男性は、『藤堂俊作』という名が書かれた名刺を差し出した。
「ああ、そうです。すみません藤堂さん、お忙しいのにお呼び立てして。――弟の身が心配なので、早速開けてもらえますか?」
美代が急かすように言うと、
「分かりました。すぐに」
ガチャッ。藤堂はポケットから取り出した鍵でドアを開けてくれた。
「さあ、どうぞ」
「悠介ー!」
靴を脱ぐのももどかしく、急いで床へ上がり込むと、悠介の名を呼びながら美代は廊下をリビングへと辿った。歩数にしたら十歩くらいのものだし、何度も来ている美代にとっては一分もかからない。
リビングへのドアを開いて中を見渡したが、悠介の姿はない。
「やはりどこかへ出掛けたんだろうか?」
そう思った美代の目のガラス体に、突然、寝室へのドアが写った。
「そうだ! 寝室があるんだった」
そう気付いた美代は、また悠介の名を呼びながら初めてそのドアを開けた。
寝室のベッドの上に、悠介らしき人物が横たわっている。
「……!?」