「ひとりの難ある隣人の話。」
そういうことなら、ちゃんと面倒見てやらないとなぁと、謎の親心が働いてしまう。家事なんてまったくできないし、したこともないが。
「ただ、一言も会話を交わしていないので……変わった方だなとは思ったけど」
前言撤回。
一体何なんだ。何者なんだ、鷺戸さんは。
何だ。もしかすると、日本語が喋れないのか。なんか袴とか着ちゃってるし、実は日本かぶれの外国人なのか。
いやでも、「ハロー! ナイストゥーミーチュー! HAHAHA!!」みたいな挨拶くらいは俺にだってできる。俺にできるなら、他のヤツができても何らおかしいことはない。
服装だけならそれで説明がつくのだが、彼の通っている学校は、頭のいい坊っちゃんたちが通う学校だ。一体どうやって入学したのか……もしかして、金か? 金か!? 金なのか!? 裏口入学とか賄賂的な!!
考えれば考えるほど、謎が謎ばかり呼んでしまい、しまいには頭が爆発しそうになって頭を抱えていると、雀坂さんがすごく不安そうに俺を心配した。
「鷲尾さん、大丈夫……?」
「あ、平気っス。全然問題ないっス。大丈夫っス。この通りっス。HAHAHA!!」
俺が日本人かぶれの外国人になってるじゃねーの。
これ以上、考えていては働く前から頭がおかしくなりそうだ。
職場まで飛ばしてる間に、思いっきり風を受けて、頭をすっきりさせようと自分に言い聞かせて、座席の下からヘルメットを取り出す。
「これから仕事ですか?」
「うん、そう。そろそろ飛ばさないとやべーかもなぁ。今何時?」
「え、あ……二十二時半です」
そう言って、笑顔で携帯の画面を見せつけてくる。
自分の家の熱帯魚だろうか。青い光の中で色とりどりの群れをなしている魚が印象的だ。
だが、それに癒されている余裕などない。今になって、寝坊したことを思い出した。
始業時間は二十三時。俺の家から職場まで、大体四十分。ギリギリ間に合うか間に合わないか。それは、神のみぞ知るといったような状況だ。
不味い。不味いどころじゃない。非常に不味い。マジで不味い。超不味い。
俺の頭が完全にそちらへシフトされると、雀坂さんにちゃんとした別れの挨拶もせずにスクーターをぶっ飛ばす。俺が視界から消えたあと、雀坂さんはしばらく呆然と立ち尽くしていたのだろう。あのときは本当に申し訳ないことをしてしまったと、心の底から反省している。
けれど、俺は次に雀坂さんに会ったとき、謝罪するのを忘れていた。そして、雀坂さんもそんな俺に対して何もツッコミを入れなかった。
本当、いい人すぎる。幸せになってほしいと願う人の五本の指に入る。
ちなみにこの日は、遅刻しました。
第3話「ひとりの難なる隣人の話。3」
それからまた数日後。
俺はまたいつも通り仕事に出かけた。
その休憩中にぼんやりと煙草を吸っていると、携帯がぶるぶると震え出した。メールなんて久しぶりだ。
メールを送信してきたのは、俺の住んでいるアパートの下の階に住む鷸野先輩だった。
鷸野先輩は高校時代に所属していた部活の二つ上の先輩であるが、先輩というよりかは、友達のような存在に近い。
昼間はカラオケ店で働いているため、こんな夜遅くに起きているはずはないのだがと怪訝に思いながら、メールを開く。
『ちょーこわいマジこわいどれくらいこわいかというとマジこわいちょっときてマジきてちょーきていますぐぜんそくりょくできてマジで』
ここまで、改行も句読点もないので、読みづらいことこの上ない。
かろうじて、“マジ”だけがカタカナだったので、どうにか内容を把握することができたのだが。
しかし、きてくれと言われても俺は仕事中だ。なので、無理だと謝罪のメールを飛ばそうとしたところ、思いの外この派遣の仕事が早く片付きそうになったため、幸か不幸か、早上がりになってしまった。
せっかく稼げると思ったのになと、頭の中で愚痴りながら、しぶしぶバイクを走らせて帰宅する。
バイクから盛大に奏でられる排気音が鷸野先輩の部屋まで届いたのか、半泣きになりながらこちらへ向かって救助信号を向けてくる。
正直、寝たい。今すぐそこに横になって寝たい。
舗装されていない土の上でも、冷たくて硬いアスファルトの上でもいいから寝たい。
それくらいには寝たくて寝たくてたまらないのだが、何だそのチワワみたいな愛嬌のある潤んだ目は……あ、ちょっとネタが古いか。
しかし、あの尋常でない怯えっぷりは、俺の知ってる鷸野先輩じゃない。背筋を嫌な汗が伝って流れるほどの不安に苛まれた。
仕事帰りの重たい身体と荷物を背負って、ずるずると先輩の部屋へ滑り込む。
部屋の内部は、俺の部屋とほぼ同じ構造をしているのだが、俺の部屋とは違って雑然としていて、あちらこちらにいろんなものが散乱している。
頼むから、使用済みのティッシュくらいはゴミ箱に入れようぜと口にしようとした瞬間、ゴミ箱の中身が富士山になっているのに気付いて、がっくしと項垂れた。
先輩に雀坂さんの神経質さというか、几帳面さというか、そういうのを分けてあげたい。雀坂さんはもうちょっとこう、先輩みたいに大雑把な人になってもいいと思う。神様がきっと許してくれる。
同じアパートの住人だというのに、何でこうも性格が違うのかと眠い目をこすりながら考えていると、突然、天井からドンという音がした。
鷸野先輩はひっと声を上げ、手にしていたコーラ(カロリーオフのあんま美味しくないヤツ)を思わず床にこぼしそうになっていた。
「もぉーさぁー! 連日、日付変わった時間くらいから、ずっとずぅーっとこの調子でさー! 本当ちょーこわいんだよー!!」
確かにこのバード荘は建てられて相当な年月が経っており、お世辞でも頑丈でしっかりしているとは言い難い。
確か、鷸野先輩の隣人である鶴屋さんの家は、床がぼろぼろに腐っていて、危うく大惨事になるところだったと聞いたことがある。
まぁ、そんな物件であるため、家賃はとても良心的ではあるのだが。
「……烏丸さんに相談したらいいじゃないスか。あの人、大家さんなんでしょ?」
「ばっか! 何言ってんだよ! 俺がオオヤサンなんて偉大で高尚なお方に話し掛けられるほどの度胸を兼ね揃えているわけがないと知っておいででらっしゃるでございますでしょう!?」
途中で何を言っているか、ちょっとよく分からなくなってきましたね。
つまり、結論的には。
「ヘタレでチキンでビビりだから、大家さんに告げ口することはできないと、そういうことだな」
「いやそれで大体合ってるんだけど、なんかこうさ、もぉーちょっとビブラートに包んで言えよー!! 傷つくだろー!?」
何? ちょっと声震わせて、歌うように言えばいいの? そんなオペラ歌手みたいなこと、俺にできるわけねーだろーが。
「いやなんつかね! 大家さんには毎朝、朝早くからバード荘の掃除とかしてもらってるわけじゃないでございますですますじゃないですか?」
誰か、コイツに本来の正しい日本語返してやってくれ。
ていうか、天井に警戒してるからって上目遣いで喋られても、全然何も感じない。むしろ、気色悪いのでやめて下さい。お願いします。
作品名:「ひとりの難ある隣人の話。」 作家名:彩風