「ひとりの難ある隣人の話。」
第1話「ひとりの難ある隣人の話。」
それは、五年前まで遡る。
鷲尾紫雲。二十歳。
冬の冷たい風が、すっかり柔らかな心地よい風に変わっていた春の朝、夜間のトラック運送業の手伝いの仕事を終えたときの話だ。
いつも通り、アパートの三階の一番端の部屋まで、筋肉痛に苛まれた重たい足を引きずり歩く。
やっとこさ辿り着いた家の扉の前で立ち止まり、キーケースを取り出そうとポケットをまさぐっていると、ふといつもと何か違うことに気づいた。
あまりに疲労困憊していたので、それに気づくのに数十秒ほどかかったものの、朝刊が入っているだけの郵便受けに、謎の箱が突き刺されていることに何とか気づいた。
……これは新手の宅配テロだろうか。
いやそれ以前に、何か荷物を注文した記憶もないし、実家から荷物が送られるとも聞いていない。
しかし、その箱に貼られている紙に書かれている宛名は、確かに俺の名前なのだ。
その箱の隣で申し訳なさそうに挟まれている朝刊を取り出して、そっと鞄にしまうと、むりやり突っ込まれていた箱を抜き取る。
疲れた身体にはえらく労力を必要としたし、箱がへこんで形状が変形してしまったが、まぁ、それはともかく。
部屋に入り、外装の包み紙をべりべりと破いて箱の中身を開封する。中身はちょっとした茶菓子のようだ。朝食を買い損ねたのでありがたい。
ぼりぼりと盛大な音を立てて煎餅を貪りながら、俺の名が書かれた紙を開いて読む。
差出人は、どうやら昨日越してきた学生さんらしい。
可愛らしい丸文字が、青春のときめきと甘酸っぱい思い出を駆り立てる。きっと、春から近くにある高校か大学に通う女学生さんなのだろう。
過去の淡く切ない記憶に浸っていると、いつもごみを出す時間になっていた(ごみが回収される時間には寝ている。でないと、身体が持たない)。
直接、顔を見て挨拶くらいはしておかないとなーと、眠気にやられそうな頭で考えながら、玄関の片隅においてあった黒いごみ袋を持ち上げて外に出る。
じりじりと照らす朝の眩い陽光に心が折れそうになりつつも、何とかごみを出し終え、自宅へ戻ろうと踵を返すと、人の気配に気づいた。
気配を感じた方を振り向くと、青緑がかった灰色の袴に、丈の長い黒のライダースを纏った少年がアパートの階段をとんとんと駆け下りていた。
なんつーセンスだ。
最初に脳裏に浮かんだ言葉は、まさにそれだ。
その奇抜なスタイルに目を奪われながら、彼の手にある、傷一つない真新しい学生鞄に目を遣る。
その鞄には学校の校章と名前が小さく刺繍されていた。
私立東雲川学院高等学校。
金持ちで頭のいい坊っちゃんたちが通う学校だ。
なんでまた、こんな辺鄙なアパートに引越ししてきたんだろうなと、少しだけ哀れに思いながら、視線をその右へ動かす。
どうやら、名前のようだ。
苗字は鷺戸……えーと、名前まではよく見えなかった。
ああ眠いと、頭を掻いてぼやきながら、去って行った少年と逆の方向へ向かって歩み出す。
これは起きてから風呂コースだ。
このときにはもうすでに、少年のことなど頭になかった。
しかし、この鷺戸という少年が、難ある隣人だったと知るのは、その数分後の話であった。
第2話「ひとりの難ある隣人の話。2」
その日の夕方。
俺はいつものように仕事に行こうと、後ろ髪引かれるような思いになりながら、急ぎ足で家を後にした。
寝坊して遅刻寸前の割には、不思議と落ち着いている。恐らく、久しぶりに長時間眠ることができたからだろう。
今思えば、あのとき何連勤していたのだろう。今となっては考えられないというか、もしかしたら、あの職場、ブラックだったんじゃねーのとすら思う。
寝ても寝ても疲れの取れない重たい身体に鞭を打っていると、自分と入れ違いで家に入ろうとしている奇妙な格好の少年がいた。
袴の上に丈の長い黒のライダースを羽織った、あの奇抜な格好の少年だ。
郵便受けに箱をむりやり詰め込られたことを少々根に持っている(ぱかぱかする蓋が壊れ、それの落ちた音で一度睡眠を妨害された)ので、第一印象はあまりよくないが、まぁ、お世話になる隣人だ。お礼くらいは言っておこう。
「あ、ども」
挨拶をすると、隣人は小さく頭を下げて見せた。なるほど、なかなか礼儀はしっかりしているじゃないか。
さすが、私立のお坊ちゃん学校に通っているだけはある。まだまだこの国は捨てたもんじゃなさそうだ。日本の未来は明るい。
「お隣に引っ越してきた鷺戸さんっスよね」
そう声を掛けると、そうだと言いたげに首を縦に振って頷く。ちなみに、真顔で。
「先日はご丁寧に茶菓子あざっした。美味しくいただきましたんで」
いえいえ、どういたしましてと言いたそうに、首を横に二度振る。やっぱり、真顔で。
「ホント、ご馳走さまでした。これから、よろしくお願いします」
こちらこそと、また首を縦に三度振る。もちろん、真顔で。
さすがに真顔だと、なんつーか怖い。つか、何か喋れよ。
思わず、その場から逃げ出したくなって、適当に挨拶をすると、駐輪場まで全速力で走った。
何も喋らないのも怖いのだが、何よりも感情の色が一切表情に表れていないのが怖い。顔が綺麗に整っているからなおさら。まるで、夏の心霊番組でも見終わったあとのような気分だ。春なのに。
荒れた呼吸を整えながら、愛車である白いビッグスクーターに跨ると、偶然にも同じ階に住む住人に鉢合わせた。
雀坂御津。確か、当時は十九歳の大学生だったと記憶している。ちなみに、名前は「みと」と読むらしい(俺は割と最近まで「おつ」だと思ってた。どんな名前だよ)。
見た目なクールなインテリ系。お洒落な黒縁眼鏡がよく似合う好青年。でも、性格は至って柔和で温厚。それが災いして、いつか宗教とか勧誘に引っ掛かりそうで、鷲戸さんとは別の意味で怖い。
「あ、雀坂さん。先日はみかんありがとうございました。超美味かったっス」
それにしても、俺はいろんな人に食い物をもらいすぎである。恵まれているなーとしみじみ感じる瞬間だ。
「気に入ってくれたようでよかった。実家から届いたみかん、腐らせるわけにはいかなかったので」
そう言って、日々の疲れを感じさせないような笑みをこちらの手向けてくる。
ひとつしか違わないのにこの差。俺にはムリだ。目の下の暈とか、疲れてるんですよオーラは隠せない。
「そいや、俺んちの隣に越してきた人のこと知ってます?」
「鷺戸さんですか。僕のところにも挨拶に来ましたよ。仏頂面でお菓子を渡されたのでちょっと驚きましたが、きっとそういうのが苦手な方なんでしょうね」
「ああ、そうなんっスか……」
なんだ。そういうことなら、日を改めてうちに来ればよかったのに。
煎餅ならもうちょっと日持ちするだろうに、シャイな性格なのだろうか。そう思うと、あのへんてこな服装も真顔も、どことなく可愛く思える。
そもそも、この春入学した高校一年生といったら、十五、六歳。ちゃんと隣人に挨拶に出向ける方が珍しい。
それは、五年前まで遡る。
鷲尾紫雲。二十歳。
冬の冷たい風が、すっかり柔らかな心地よい風に変わっていた春の朝、夜間のトラック運送業の手伝いの仕事を終えたときの話だ。
いつも通り、アパートの三階の一番端の部屋まで、筋肉痛に苛まれた重たい足を引きずり歩く。
やっとこさ辿り着いた家の扉の前で立ち止まり、キーケースを取り出そうとポケットをまさぐっていると、ふといつもと何か違うことに気づいた。
あまりに疲労困憊していたので、それに気づくのに数十秒ほどかかったものの、朝刊が入っているだけの郵便受けに、謎の箱が突き刺されていることに何とか気づいた。
……これは新手の宅配テロだろうか。
いやそれ以前に、何か荷物を注文した記憶もないし、実家から荷物が送られるとも聞いていない。
しかし、その箱に貼られている紙に書かれている宛名は、確かに俺の名前なのだ。
その箱の隣で申し訳なさそうに挟まれている朝刊を取り出して、そっと鞄にしまうと、むりやり突っ込まれていた箱を抜き取る。
疲れた身体にはえらく労力を必要としたし、箱がへこんで形状が変形してしまったが、まぁ、それはともかく。
部屋に入り、外装の包み紙をべりべりと破いて箱の中身を開封する。中身はちょっとした茶菓子のようだ。朝食を買い損ねたのでありがたい。
ぼりぼりと盛大な音を立てて煎餅を貪りながら、俺の名が書かれた紙を開いて読む。
差出人は、どうやら昨日越してきた学生さんらしい。
可愛らしい丸文字が、青春のときめきと甘酸っぱい思い出を駆り立てる。きっと、春から近くにある高校か大学に通う女学生さんなのだろう。
過去の淡く切ない記憶に浸っていると、いつもごみを出す時間になっていた(ごみが回収される時間には寝ている。でないと、身体が持たない)。
直接、顔を見て挨拶くらいはしておかないとなーと、眠気にやられそうな頭で考えながら、玄関の片隅においてあった黒いごみ袋を持ち上げて外に出る。
じりじりと照らす朝の眩い陽光に心が折れそうになりつつも、何とかごみを出し終え、自宅へ戻ろうと踵を返すと、人の気配に気づいた。
気配を感じた方を振り向くと、青緑がかった灰色の袴に、丈の長い黒のライダースを纏った少年がアパートの階段をとんとんと駆け下りていた。
なんつーセンスだ。
最初に脳裏に浮かんだ言葉は、まさにそれだ。
その奇抜なスタイルに目を奪われながら、彼の手にある、傷一つない真新しい学生鞄に目を遣る。
その鞄には学校の校章と名前が小さく刺繍されていた。
私立東雲川学院高等学校。
金持ちで頭のいい坊っちゃんたちが通う学校だ。
なんでまた、こんな辺鄙なアパートに引越ししてきたんだろうなと、少しだけ哀れに思いながら、視線をその右へ動かす。
どうやら、名前のようだ。
苗字は鷺戸……えーと、名前まではよく見えなかった。
ああ眠いと、頭を掻いてぼやきながら、去って行った少年と逆の方向へ向かって歩み出す。
これは起きてから風呂コースだ。
このときにはもうすでに、少年のことなど頭になかった。
しかし、この鷺戸という少年が、難ある隣人だったと知るのは、その数分後の話であった。
第2話「ひとりの難ある隣人の話。2」
その日の夕方。
俺はいつものように仕事に行こうと、後ろ髪引かれるような思いになりながら、急ぎ足で家を後にした。
寝坊して遅刻寸前の割には、不思議と落ち着いている。恐らく、久しぶりに長時間眠ることができたからだろう。
今思えば、あのとき何連勤していたのだろう。今となっては考えられないというか、もしかしたら、あの職場、ブラックだったんじゃねーのとすら思う。
寝ても寝ても疲れの取れない重たい身体に鞭を打っていると、自分と入れ違いで家に入ろうとしている奇妙な格好の少年がいた。
袴の上に丈の長い黒のライダースを羽織った、あの奇抜な格好の少年だ。
郵便受けに箱をむりやり詰め込られたことを少々根に持っている(ぱかぱかする蓋が壊れ、それの落ちた音で一度睡眠を妨害された)ので、第一印象はあまりよくないが、まぁ、お世話になる隣人だ。お礼くらいは言っておこう。
「あ、ども」
挨拶をすると、隣人は小さく頭を下げて見せた。なるほど、なかなか礼儀はしっかりしているじゃないか。
さすが、私立のお坊ちゃん学校に通っているだけはある。まだまだこの国は捨てたもんじゃなさそうだ。日本の未来は明るい。
「お隣に引っ越してきた鷺戸さんっスよね」
そう声を掛けると、そうだと言いたげに首を縦に振って頷く。ちなみに、真顔で。
「先日はご丁寧に茶菓子あざっした。美味しくいただきましたんで」
いえいえ、どういたしましてと言いたそうに、首を横に二度振る。やっぱり、真顔で。
「ホント、ご馳走さまでした。これから、よろしくお願いします」
こちらこそと、また首を縦に三度振る。もちろん、真顔で。
さすがに真顔だと、なんつーか怖い。つか、何か喋れよ。
思わず、その場から逃げ出したくなって、適当に挨拶をすると、駐輪場まで全速力で走った。
何も喋らないのも怖いのだが、何よりも感情の色が一切表情に表れていないのが怖い。顔が綺麗に整っているからなおさら。まるで、夏の心霊番組でも見終わったあとのような気分だ。春なのに。
荒れた呼吸を整えながら、愛車である白いビッグスクーターに跨ると、偶然にも同じ階に住む住人に鉢合わせた。
雀坂御津。確か、当時は十九歳の大学生だったと記憶している。ちなみに、名前は「みと」と読むらしい(俺は割と最近まで「おつ」だと思ってた。どんな名前だよ)。
見た目なクールなインテリ系。お洒落な黒縁眼鏡がよく似合う好青年。でも、性格は至って柔和で温厚。それが災いして、いつか宗教とか勧誘に引っ掛かりそうで、鷲戸さんとは別の意味で怖い。
「あ、雀坂さん。先日はみかんありがとうございました。超美味かったっス」
それにしても、俺はいろんな人に食い物をもらいすぎである。恵まれているなーとしみじみ感じる瞬間だ。
「気に入ってくれたようでよかった。実家から届いたみかん、腐らせるわけにはいかなかったので」
そう言って、日々の疲れを感じさせないような笑みをこちらの手向けてくる。
ひとつしか違わないのにこの差。俺にはムリだ。目の下の暈とか、疲れてるんですよオーラは隠せない。
「そいや、俺んちの隣に越してきた人のこと知ってます?」
「鷺戸さんですか。僕のところにも挨拶に来ましたよ。仏頂面でお菓子を渡されたのでちょっと驚きましたが、きっとそういうのが苦手な方なんでしょうね」
「ああ、そうなんっスか……」
なんだ。そういうことなら、日を改めてうちに来ればよかったのに。
煎餅ならもうちょっと日持ちするだろうに、シャイな性格なのだろうか。そう思うと、あのへんてこな服装も真顔も、どことなく可愛く思える。
そもそも、この春入学した高校一年生といったら、十五、六歳。ちゃんと隣人に挨拶に出向ける方が珍しい。
作品名:「ひとりの難ある隣人の話。」 作家名:彩風