天使の導き
やはり僕は嫌われていたんだ。
死が確定している男に憐みの愛情を注いでいたら、奇跡的に回復してしまって困惑しているんだ。
深夜の黒い天井を眺めながら自嘲の笑みを浮かべる。
まあ、いいや。僕の人生はまだ続く。この病室で終わりじゃない。退院したら新しい恋が見つかるかも知れないじゃないか。
気持ちの整理をつけて目を瞑ろうとした時、病室の扉が開いて眩しい光が差し込んだ。
「……もう、お休みですか?」
逆光で顔がよく見えないが、その声は間違いなく愛理さんだった。
「どうしたんですか?」
高鳴る胸の鼓動を隠すようにゆっくりと上半身を起こし、枕元のライトを灯す。
扉を閉めた彼女が僕をまっすぐに見つめながら近づいてくる。
「私、あなたにずっと嘘をついていました」
絞り出すような声が薄暗い病室に響く。
「嘘……ですか?」
「はい」
ベッドの前で跪くように屈んだ愛理さんが僕の左手を両手で握りしめた。その手が微かに震えている。
「佐藤さんが飲んでいる薬……本当は新薬じゃないんです」
「え?」
「ただの鎮痛剤なんです」
彼女が何を言っているのかよく解らない。しかし、僕の胸はキリキリとした痛みを思い出していた。
「や、やだなあ、そんなわけないじゃないですか。現に僕の病気は良くなっているんですから」
僕は明るく笑い飛ばそうとしたけど、彼女の瞳から涙が零れ落ちているのを見てしまって失敗する。
愛理さんの話によると、僕の病気は全然良くなっていないらしい。今も平然と生きているのが奇跡なのだと言う。
「それはきっと佐藤さんが希望を持っていたからです」
その希望を与えてくれたのが担当医の嘘。昔から”病は気から”と言われているように、メンタルは体調に大きな影響を与える。「頭痛薬だ」と言われて胃薬を飲んだら頭痛が治ったりする。こういうのを医学用語ではプラシーボ効果と言うのだと彼女が教えてくれた。臨床試験の真の目的はそれだったんだ。
だけど、そんな思い込みだけで不治の病が完治するわけがない。現実に背を向けていたって、いずれは迫りくる死にあっさりと飲み込まれてしまうんだろう。
「私は薬なんかより佐藤さんの心の力を信じています」
愛理さんの細い指が僕の顔に触れる。
「私のために本当の奇跡を起こして……」
その言葉は彼女の唇と同じように甘かった。
僕は必死に生きようとした。現実から目を逸らさずに闘うと決めた。
愛理も看護婦としてだけでなく、秘密の恋人として僕を支えてくれる。
でも、病魔は確実に僕の身体を蝕んでいた。気休めの鎮痛剤も痛みを抑えられなくなっていく。
医師は相変わらず「検査の結果は良好です」だなんていう嘘を平気な顔をして言っているが、もう全身の臓器が黒く染まっているのを僕は知っている。
彼女だけが真実を教えてくれた。
やがて担当医は「ちょっと病状が悪化していますね……」と言葉を濁しながら真実を洩らすようになっていった。
退院した後のことを話していると涙を流すようになった愛理。
生きたいと強く願っている末期患者はこの世界に数えきれないほど存在している。僕がその中のひとりに過ぎないってことは初めから解っている。
それでも僕は必死に生きようとした。僕と彼女の未来のために。
”必死”という言葉がとても不吉であることに気づきながら。
視界が真っ白なのは、僕が天井を見ているからなのか。
手も足も眼球すらも自由に動かせなくなった僕は、たくさんのコードを身体に付けられてベッドの上に置かれていた。
「なんで佐藤さんだけ……他の患者さんは良くなっているのに」
いつも元気だった婦長の飯山さんの声が涙に濡れている。
「被験薬だからね。こういうケースも起こりうる。今回の治験で新薬の認可が遅れそうだな」
この期に及んでまだ嘘をつき続ける医師の声は、心臓が凍りつきそうになるほどに冷たかった。
「佐藤さん……」
頬を優しく撫でるような声が微かに聞こえる。
「やっぱり、病は気からなんですねぇ……」
耳元でクスクスと笑っている彼女。
その言葉の意味を理解する前に、僕の意識はプツンと消えた。