楠太平記 一章
兄弟二人を連れ、正行は自身の部屋に入った。
部屋には既に重臣たちが左右に座り、三人が来るのを待っていた。
「お待ちしておりましたぞ、殿」
その左列の一番奥、鷲鼻と顎に髭を蓄えた初老の男が口を開く。
正行たちの父・正成の頃より仕える歴戦のつわもの。名を和田正武(にぎたまさたけ)という。
和田一族は楠木一族の親族である。正武はその和田一族を束ねる長。他の親族たちの中でも最も有力な重臣だ。
「うむ。待たせたな、正武。では軍議を始めよう」
「軍議・・・・・・でございますか?」
正行の言葉に、正儀は目を丸くした。
父・正成が湊川で敗れ自害して以来、楠木一族は大きな戦にはあまり参加していなかったのだ。
とはいえ、七年ほど前に北朝軍に攻められた時、正行は防衛の指揮を執っていた。
「そうだ。軍議だ」
正行は部屋の奥に設けられた自身の席に座すと、兄弟たちにも座るよう促した。
「湊川で父上が亡くなられて、十三回忌を迎えた。あの時十三だった私も二十二。減った郎党も以前と同じ戦力にはなった。
かくなる上は、父上との約束を果たそうと思う。攻勢に出るぞ」
正行は父・正成が最後の戦いに赴く道中まで、同行していた。
だがその途中で、河内に帰り、父の死後も天皇をお守りせよと固く命じられたのだ。
正行は一緒に戦って死ぬと父に抗ったが、それを覆すことは叶わなかった。
そして次に対面した時、父は首級となっていた。
父を倒した武将は当時の天皇とは他の天皇を立て、京都に幕府を開いた。
今も北朝の中心的な存在として、将軍の座にいる。
それ以来、正行は文武に勤しみ、この河内を守り続けてきたのだ。
「兄者、よく決してくれた! この正時、今から腕が鳴りまする!!」
「うむ。そなたには私の副将として大いに働いてもらうつもりだ。その意気で頼むぞ」
「では正行兄上、何処を攻めるのですか」
正行は自分の前に地図を広げさせると、扇子をトンと突いた。
「紀伊国・隅田城を攻める」
「隅田城・・・・・・隅田党の居城でございますか」
「うむ。ここは以前より我らと縁の深き者が多くおるが、今は幕府側に近寄る者の力が強く、京を攻める我らの背後を突いて来よう。それを防ぐのだ。
我らがこの城を攻めれば、昔からの縁深き隅田党の郎党たちは我らに味方しよう」
隅田一族は、内部での権力争いが少なからず見受けられた。
力と、財産となる領地。これが武士たちの全てとも言える。平安の時代から変わらない、武士たちが戦う理由の一つでもある。
「なるほど、内応者を出すのですな」
正武も反論なく、正行の策にうなずく。
「そうだ。だがその可能性あるなしに関わらず、こちらは全力で攻めてかかる。正武、助氏(すけうじ)。軍備にとりかかれ」
「承知仕った!」
「正時は兵士を鍛えよ。正儀には兵糧の手配を頼む。腹が減っては戦は出来ぬからな」
「おうっ!」「はい」
適材適所、正行は重臣たちに指示を出していった。
血の繋がった親族たちは正行を全面的に信頼している。正行もまた、そうだ。
一族の繋がりでは、北朝の武士たちには負けないという自負さえある。
「八月には攻める。このこと、敵には悟らせるな。これで軍議は終わりだ」
正時、正儀、重臣たちが部屋を去っていくのを見届け、正行は大きく息を吐いた。
「父上・・・・・・いよいよ、約束を果たす時が来たようですぞ・・・・・・ッ!」
彼は突然の胸のつかえに咳き込んだ。
最近忙しく働いていたせいか、風邪をこじらせたのかもしれない。
だが彼は気を緩めるわけにはいかなかった。
これからもっと気を引き締めて戦いに赴かなければならないのだから。
だが妹がこのことを知れば、恐らく大いに怒ることだろう、と彼は苦笑した。