楠太平記 一章
秋の始めということもあり、稲も穂を重く垂れ始めている。もう少し成熟すれば、領内の農民たちも大忙しだろう。
城の周りは美しい棚田が広がっている。夏の緑も良いが、黄に染まった棚田は言い尽くせないほどの美しさだ。
この景色が千早は好きだ。兄の正行も、この景色を見るとほっとすると言うほどだ。
弱点といえば、城の周りにある為、万一の時には戦火にさらされやすいということ。
城も小高い丘にあるが、防備にはさほど向いていない城だ。
どちらにせよ戦が起きた時には、この場所は放棄せざるを得ない。後詰の城にこもって戦うことになるだろう。
この方法で父・正成も、籠城戦で数倍の敵を打ち破った。金剛山という天然の要害に城を築き、それをうまく使いこなしたのだ。
その山の中で兄たちと戦ごっこをしたり怪我したりしたのは数知れず。
(・・・・・・そうだ、久しぶりにあっちに行ってみようかな)
兄たちと作った秘密の場所が、山の中にある。まだ日も高いし、迷うことは無いだろう。
堯を駆り、金剛山の麓へと向かった。
伝説の皇帝の名をつけられた愛馬はすいすいと風を切り、千早も慣れた手つきで手綱を捌く。
だが山中はさすがに乗ったままで行けるわけではない。近くの木に手綱を結びつけ、中に入る。
秘密の場所は、戦ごっこの最中に千早が見つけ、兄妹たちの溜まり場になった所だった。
「よいしょ・・・・・・っと」
秘密の場所の入口まで来た。久しぶりに来たせいか、随分と蔦が茂っている。
小太刀で軽く払うと、人一人入れるほどの小さな入口が見えてくる。彼女が子どもの頃なら難なく入れるものだったが、今では少し屈まないと入れない。
堅い岩肌が風雪によって削られたらしい。狭い入り口を潜ると、中には広い空間が広がっている。
上からは日差しが優しく差し込み、小さな隙間から草木が生い茂っている。
「――ああ」
思わず、千早は声を漏らした。
辛い時がある度に、彼女は良くここに逃げ込んだ。夜になってもここにいたことがある。月明かりが差し込むので、さほど怖いとは思わなかったのだ。
もちろん、発見された時はこっぴどく叱られたものだが。
ただ、一人でいたい時や考え事をしている時、ここに来ると落ち着くのだ。
(兄上は、何をするおつもりなのかしら)
正行の真剣な面持ちに、それにつき従って行った二人の兄たちの顔つきも違った。
今までで一番、重大なことが起きたのか、今から起きるのか、そうに違いなかった。
(私は・・・・・・兄上の為に、何も出来ないのか、な)
大事な話となると蚊帳の外。大事にされていることは分かっているが、大事にされすぎることも少々重荷だ。
そう話すと、母の久子は困った顔で微笑む。伊勢は心配なのですよ!! と豪語するに決まっている。
(どちらにせよ、いつか兄上に認めてもらわないと)
よし、と自身に言い聞かせ、千早は城に戻ろうと狭い入口に向かった――。
「・・・・・・そこに、どなたかいらっしゃいますね?」
千早は何者かの気配を感じた。思い出の場所で気が抜けていたのか、今の今まで気付かなかった。
だが相手も、千早が去ろうとする一瞬気を抜いたのは間違いない。
近くに落ちていた木の棒を拾う。秘密の場所とはいえ、賊の可能性がないわけではない。
「出てこられないのでしたら、こちらから――」
「気の強いおなごじゃ」
千早は何が起きたか分からなかった。
言葉を言い終らないうちに、喉元に太刀の切っ先が向けられている。
相手は千早の背後にいて、顔を窺うことは出来ない。
「っ、ここは私の場所なのですが、貴女様は何の故あってここに?」
「左様か。じゃが左様なことは知らぬ。先に来た者勝ちであろう?」
声は千早よりも大人びた女性の声。そして千早よりも強い。
「賊ですか? それとも、北朝の手の者ですか? 私をどうするつもりかは知りませんが、それだけは教えて頂けますか」
「知ってどうする」
「それで私が貴女をどうするか決まります。見逃すか、見逃さないか」
相手の持つ太刀が、ぴくりと揺れた。
相手より劣っていることを悟られてはならない。逆に自分の手の内に相手がいると錯覚させることが、今千早に出来る最善の策だった。
無駄に抵抗しても勝ち目はない。
「フ・・・・・・面白い奴じゃのう。じゃが生憎じゃな、そのどちらでもない」
背後の気配が一瞬消えたかと思うと、相手は千早の真正面に姿を現した。
ところどころほつれた黒一色の着物。蛇のように鋭い瞳、長い黒髪を一括りにした女性だった。
何処か着物といっても異国風のものだが、その手の得物は武士たちが使う太刀と同じだった。
「異国の・・・・・・方、でしたか」
「まあそんな所じゃ。――で、如何する。お主が見逃さぬと申すのであれば、ここで叩っ斬っても良いのじゃが」
相手はニヤリと笑って太刀を下段に構えて見せた。
向こうも千早を試しているのが、彼女には分かった。
「そうですね。叩き斬って貴女の状況が変わるのでしたら」
特に構えを見せず、千早は両腕をぶらりと広げて見せた。度胸はいるが、空城の計の応用だ。
相手はいつでも踏み出していいように構えていたが、やがてふぅ、と大きく息を吐いた。
「そうじゃな、よそう」
「それは良かった。では、貴女を見逃しましょう」
「そうしてくれると有り難い。ではな」
瞬きするうちに、彼女の姿は掻き消えていた。