楠太平記 一章
屋敷に戻った千早を出迎えたのは、幼馴染ともいえる少年だった。
先程遊び相手にしようと探していたが、捕まらなかったうちの一人だ。
彼はまだ元服前。茶色の髪は、彼以外では目にしたことがない。そのせいか、彼に初めて会う人は驚き、奇異の目で見るほどだ。
「おーい、大将! 何処行ってたんだー?」
「ただいま、小助。ちょっとお山の方まで早駆けしてきたのよ。貴方に剣の相手してもらおうと思ったんだけど、生憎見つからなかったから」
「ああ、悪ぃ。賢秀(けんしゅう)の奴に稽古してもらってたんだ」
小助は堯の手綱を傍らで引きながら、白い歯を見せて笑った。
「そうだったの。最近よく賢秀殿に稽古つけてもらっているみたいね。感心感心。正儀兄上とは正反対だわ」
賢秀(けんしゅう)は千早の父・正成の弟である正季(まさすえ)の息子だ。千早とは従兄弟同士。
僧体の身なのだが武勇に優れ、正行を支える若者の一人でもある。
「おう。何せ親父がもうすぐ元服させるって言ってくれたからな。早いこと役に立てるように、今から鍛えておかねぇと」
「そう、とうとうそういう時期になったのね。目出度いことだわ」
小助は数え年十四だ。元服してもおかしくない頃合いだった。
彼は照れるように微笑み、千早の目をじっと見つめた。
「――な、何? 小助。私に何か、付いてる?」
「いや、そうじゃねぇ。大将が俺を拾ってくれなかったら、今日の俺はなかったんだなぁって。――その、ありがとな」
そう言い切ると、小助は恥ずかしそうに顔を背けた。
千早が幼い頃――父が湊川で死に、そう経たない頃だった――。
何かの用事で出かけた帰り、河原で彼が子どもたちに虐められているのに遭遇した。
訊くと、子どもたちは小助を鬼の子だと言った。
彼の母親は鬼に辱められ、彼を産んで逃げたのだ、と。
鬼は不吉なものだから、こいつも不吉を呼ぶに決まっている、と。
千早はそれは違う! と声を張り上げて反論した。数え年五歳の子に、大した理由があった訳ではない。
それでも違うと彼女は思ったのだ。
千早は供の者に小助を救い出させ、屋敷に一緒に連れて帰った。
皆が彼の髪の色に驚き、千早がこの子を助けてほしいというと更に驚いた。
だが新たな頭領となっていた正行はこれを許し、部下の家に預けたのだ。
部下の家といっても、代々楠木一族に使える重臣の家だ。
何処の誰とも分からぬ子どもを預けられ、普通であれば拒絶されてもおかしくない。
だが小助を預かった重臣には子どもがなく、本当の息子のように彼を育てた。
「俺・・・・・・ここの人たちが好きだ。俺のことを、特別扱いしないでくれる。ここがもし戦場になったら、死に物狂いで戦ってやる」
「小助・・・・・・」
「大将――千早のことも、絶対守るからな」
顔を背けたままだったが、小助の顔は耳まで真っ赤になっているのが見え見えだった。
まだまだ背丈も伸び盛りの彼だが、一人前の武士と変わらぬ思いを秘めている。
「ありがとう。でも私を守るなら、私より強くなってもらわないと、ね」
「お、おう・・・・・・」
顔を背けていた小助が、ぎぎぎと音を立てんばかりにこちらを向く。
その壁が一番高い、と言うような表情を浮かべて。
「それじゃ小助、私と手合わせといきましょうか。どれくらい強くなったか試そうじゃないの」
「え、ちょっとそれは・・・・・・」
「ほらほら、行くわよ!」
小助の顔が引きつっているように見えたが、千早は彼の腕を引っ張り、先の鍛錬の場へと走っていた。
「おう姫さん、今日も元気やなぁ」
その千早の背中に、頭を丸めた青年が声をかける。
「あ、賢秀殿。もうお帰りですか」
小助の鍛錬を見ていた僧体の青年・賢秀だった。
出家の身ではあるが、袈裟を着るでもなく、小袖と袴といった簡単な格好を彼は好むらしい。首には木で出来た粗末な数珠を掛けている。
左腰には艶消しされた黒鞘の太刀。いざとなればこの一振りで多くの敵を打ち破ることだろう。
賢秀は千早の次兄・正時と劣らぬ武を身につけているのだから。
「いや、頭領に来い言われとるねん。そっち顔出したら後は帰るわ」
千早は先の、正行が正時と正儀を呼びに来たことを思い出した。
呼ばれたのは兄たちだけではない、おそらく重臣たちもだ。
「先程兄上が、合議をされておられたみたいですけれど・・・・・・賢秀殿は行かれなかったのですか」
「ほんまかいな? あちゃー、小助の坊(ぼん)に掛かりっきりやったさかい。持田の親仁(おやっ)さん、ワシを呼びに来ぇへんかったでぇ。全く・・・・・・」
賢秀はさほど困ったという顔もせず、参った参った、と大笑い。
このあっけらかんとした賢秀の性格は、誰も憎まない。
それも気持ちの切り替えが早いのか、彼が凹んだ所を千早は見たことがなかった。
「ほな行ってくるで。姫さん、小助、またなー」
ぽんぽんと千早と小助の頭を軽く叩くと、賢秀は陽気に鼻歌を歌いながら去っていこうとする。
「あ、あの賢秀殿!!」
「うん? 何や姫さん」
千早は左右に誰もいないか確認すると、賢秀に耳打ちした。
『その、兄上が何を話されるか、良かったら教えて頂けませんか』
賢秀はう~ん、と大きく唸った後。
『考えとくで。話によっては、姫さんには伝えられへんかもしれんが』
困り果てた末に、そんな答えを返した。
正行の腹心の一人である以上、賢秀もそうおいそれと話すことは出来ないのだ。
それでも、彼は彼なりに何とかしようとしていることが伝わってくる。
『十分です。ありがとうございます、賢秀殿』
「ほなな」
賢秀は今度こそ、主君である正行の下へ去っていった。
「大将、賢秀に何話したんだ?」
「秘密」
「何だよ、俺にも言えないことか?」
小助はあからさまにむっとした顔をし、千早に迫る。
教えたいのは山々だが、これを話してしまうと逆に兄に悟られかねない。
「・・・・・・ねえ、小助。最近屋敷の空気、ちょっとよそよそしくない?」
「え? いや、至って普通だと思うけどな・・・・・・」
「そう・・・・・・私の気のせいかな」
大きなことが起きるその予兆が、この屋敷には今渦巻き始めているようだ。
それも、頭領である兄・正行を中心として。
つづく