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楠太平記 一章

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 河内国(かわちのくに:今の大阪府)・赤阪。

 ここは南朝方の有力武士である楠木一族が本拠地だ。

 楠木正成(まさしげ)は倒幕から後醍醐に味方した有能な武将であったが、湊川の戦いで敗れ、弟と共に自害した。

 今はその息子である正行(まさつら)がこの地を支配している。


 その、楠木一族の屋敷。剣の鍛錬が行われていた。

 一人は筋骨隆々の青年。褐色の直垂をたすき掛けし、太い木刀を握っている。

 日焼けした肌、頬にはうっすらと刀傷が×に刻まれた、いかにもつわものといった姿だ。

 もう一人は、長い黒髪を紙縒りで結った少女。男とは対照的な白い肌と澄んだ瞳。

 萌黄色の小袖をたすき掛けし、青年の次の動きを待っている。

 その二人の対峙を書物片手に見つめる、藍色の直垂を着た青年が一人。

 書物を読んではいるものの、この緊迫した場に進んでいないようだ。

「どやああああっ!!!」

 怒声にも似た気合いが発せられ、大上段から男が踏み出す。

「甘いっ!!」

 それを相手の女性は受け流し、がら空きとなった脇を強かに打った。

「ぐほ・・・・・・っ?!」

 堪え切れず、男の身体が床に崩れ落ちる。持っていた木刀も、ぽろりと落ちた。

「いってええぇぇぇぇぇ・・・・・・ち、千早! もう少し手加減出来んのか!?」

 かろうじて半身を起こし、男は大声で叫んだ。

「ダメです。正時兄上はいつも力加減をしませんから。私だけ手加減するのは不公平です」

 千早と呼ばれた少女はそう言って木刀を降ろした。

「確かに、正時兄上はいつも全力で戦おうとなさる。それでは正行兄上の副将として務まりませぬぞ」

 書物を片手に持っていた青年も、千早に便乗するように刀傷の青年にずばりと言い放つ。

「ま、正儀こそ、書を読んでばかりでは戦えんぞ!! 兄者に代わって儂が鍛えてやる! 木刀を持て!!」

 正時は正儀の首根っこを掴むように無理矢理引っ張る。

「ぐぇ?! 兄上っ、首、首が・・・・・・!」

「良いから早う立たんか!!」

「千早・・・・・・っ、助けてくれ!」

 もがき苦しみながら、正儀は千早に助けを求める。

「えっと・・・・・・ごめんなさい、正儀兄上。これも良い機会ですので、正時兄上に鍛えて頂いて下さい」

 千早は満面の笑みでぺこりと頭を下げ、正儀に自分の木刀をしっかと握らせた。

「・・・・・・!? ちは――」

「観念せい正儀ぃ!」

 それでも立とうとしない正儀を、正時が首を掻かんばかりに腕をまわした時。

「賑やかだな、そなたたち」

「あっ、兄上」「兄者」「兄上、た、助かった・・・・・・」

 三者三様の反応で迎えられたのは、薄緑の直垂を着た青年だった。

 肌は千早と同じように白く、微笑みには慈愛がにじみ出ている。

 この四人は同じ父と母から生まれた兄妹だ。

 父は楠木正成(まさしげ)、母は久子(ひさこ)。

 長男である正行(まさつら)――まさに今この場にやって来た青年である――を筆頭に、正時(まさとき)、正儀(まさのり)、そして長女の千早。

 父である正成は十一年前に戦に敗れ自害しているため、正行が楠木一族の頭領となっている。

 正時や正儀はそんな正行を支えている。

 千早は父が亡くなった時わずか五歳であった為、父との思い出は無い。

 だが正行たちの戦ごっこに混ざって遊ぶうち、武士顔負けの武術を身につけていた。

「これは良かった。兄者に正儀を鍛えてもらおう」

「え、ええ!? 兄上、お助け下さい・・・・・・!」

「いえいえ。正儀兄上はもうちょっと鍛えないとダメです」

 一旦去った正儀の危機は、あっという間に正行が来る前に引き戻される。

 四兄妹のうち、武術に長けていないのが正儀だ。彼は戦う術を身につけるよりは、書を読むことの方が得意なのだ。

 そのため、しょっちゅう武の拙さを揶揄されるのだが。

「状況が良く分からないが・・・・・・鍛錬しておったのか?」

「はい。正時兄上と私で。でも正儀兄上も鍛えた方が良いだろうという話になりまして」

 なるほど、と正行は涙目の正儀に苦笑を浮かべてうなずいた。

「話は分かった。だが千早、正儀の勉学も全く無駄というわけではないぞ。いずれ来る太平の世には欠かせぬものとなる。

 戦も学がなくては勝てぬものも勝てぬ。一人の武で勝敗が決まるほど、戦というものは出来ておらぬからな。それは正時にも申しておくぞ」

「はは・・・・・・肝に銘じておきます、兄者」

「兄上・・・・・・かたじけない」

 正時は苦笑、正儀は心底ほっとした表情を浮かべた。

「千早、そなたももう十六。そろそろ何処ぞの嫁に出してもいい頃合い。私たちの真似をして武術を鍛えるのではなく、おなごとしての器量を身につけねばならない。母上と伊勢が嘆いておるぞ」

「う・・・・・・」

 伊勢というのは千早の乳母である。千早が女性らしからぬことをする度、鬼のような形相で追いかけてくる。

 何でも、姫であるのだから姫らしくしろ、というのが彼女の持論である。

「でも、私は何処の嫁になるつもりはありません! ずっとここで、兄上たちと一緒にいます!! 梃子でも動きませんからっ」

「やれやれ・・・・・・ちゃんとすれば良きおなごと、相手は惚れるだろうに。兄は、そなたのことが心配なのだがな」

 正行は困り顔で千早の頭を優しく撫でる。

 この世は太平とはまだほど遠い、戦の絶えぬ世。

 南朝と北朝に分かれ、覇権を争う状況。楠木一族は形勢不利の南朝に属している。いつ滅ぼされるかも分からない立ち位置だ。

 その前に安全なところに嫁に出しておきたい――正行が考えているのはそんなところだろう。

 だが、千早は誰かに嫁ぐなど考えていない。ましてや身体を許すなど、それをするくらいなら死んだ方がましだとさえ思っていた。

 ただ、それを正行に面と向かって言うわけにはいかないのだが。

「それより正行兄上、何か御用があったのではございませんか」

 二人の間を割って入るように、正儀が口を開いた。

「うむ。正時、正儀。こちらに参れ」

 詳細を告げず、正行は自身の部屋へと戻っていく。

 その背中を追って、正時と正儀も続く。と、思い出したように正行が千早へと振り返った。

「千早、そなたは申し訳ないが下がってもらえるか」

「・・・・・・はい」

 千早はしぶしぶ、頭領の命に従った。

 おなごであるという理由で、大事な話となると席を設けられない。もし何らかの理由で入りこんだとしても、追い返されるのは目に見えている。

(こういう時こそ、兄上のお役に立ちたいのに)

 仕方ない、と千早は自分に言い聞かせると、厩に向かった。

 遊び相手は今ちょうど誰も彼も用事で捕まらない。

 愛馬の堯にまたがると、領内の散歩へ繰り出した。


作品名:楠太平記 一章 作家名:竹端 佑