名探偵カラス Ⅲ
翌朝早くに、俺は昨日の真由美さんの様子を伝えるために、ホワイティの待つ山寺へと向かった。
途中でふっと気になって、真由美さんのマンションへ寄り、ベランダの柵に掴まって、少しだけ開いていたカーテンの隙間から部屋の中を窺って見ると、真由美さんが着替えをしているようだった。
あんなことがあった翌朝だというのに、健気にも仕事へ行く準備をしているらしい。可哀想だとは思うけど、表沙汰にすれば、傷つくのは誰でもない真由美さん自身だから、泣き寝入りは俺の最も嫌うところだが、今回の場合はそれもやむなしか…と。そしてきっと立ち直ってくれるだろう。そんな楽観的なことを考えていた。
後でもっとひどいことが真由美さんの身に起きるなんて、その時の俺は更々考えてもいなかった。
取り合えず少し安心した俺は、当初の予定に戻って一路山寺を目指した。
鳩たちは朝の活動が早い。
俺がそこへ着いた時には、ほとんどの鳩たちは、寺の坊主が彼らのために撒いたパン屑をせっせと啄んでいた。その中で一羽だけ、餌を口に、ネグラと餌場を行ったり来たりしている奴がいる。
――あれは……
「ポーじゃないか――」俺は奴を見つめ、
「何をしてるんだ?」 と、呟いた。
彼のネグラのそばまで、なるべく目立たないように近づくと、その小さなネグラの中では、ぐったりとした表情のホワイティが横になっていた。
「ホワイティ! どうした? 大丈夫か?」 俺は思わず声を掛けた。
「カァーくん、いつ来たんだ?」 背後から声がする。
俺は振り向き、問いには答えず、
「ホワイティは一体どうしたんだ? やけに辛そうだけど……」 と聞いた。
「うん。――実は昨日、カァーくんが帰った後、俺の寝床までは何とか来れたんだけど、どうやら思っていた以上にあちこちを痛めていたみたいで、動けないらしい」 ポーが悲しそうに言う。
「えっ! そんなに? クッソー! その犯人、絶対に許せねぇ!」
俺は身体の底から怒りが沸々と沸き上がってくるのを感じた。
「気持ちは分かるよ。でも僕たちにはどうしようもないよ。相手は人間だし……」 ポーが俯いて元気なく言う。
ポーが言うのは間違ってはいない。俺たちは人間に比べれば、遥かに非力な弱者の部類なんだから。そう思う反面、
『いや、絶対何らかの報いを受けさせてやる!』
そんな気持ちも確かにあって、どちらが強いか秤に掛ければ、やはり後者だったろう。
「カァーくん――」 か細い声に振り向くと、
「――真由美さんは……?」 と、苦しそうにホワイティが言う。
「あぁ、昨夜俺が行った時は、うなだれて泣いていたよ。そして、犯人の姿はもうなかった。でも……」
俺はベランダで拾った、紐の切れたドクロのことを話そうかどうしようか一瞬迷い、だけどやっぱり今は止めておこうと思い直し、次の言葉をこう繋いだ。
「――でも、今朝は仕事へ行く準備をしているようだったから、きっと大丈夫だよ。それより君の方が心配だよ。大丈夫かい?」 と。
「ありがとう、…カァーくん。――朝も…様子を見に…行って…くれたのね」
「そんなことはお安いご用さっ」
途切れ途切れのホワイティの声にそう答えた。
「さぁ、話はそれくらいにして、少しでも食べて元気出さなきゃ」
二人の会話に口を挟んでそう言うと、ポーは、啄んできたパン屑を口移しでホワイティの口へと……。
「おっ、おい! ポーーッ!」
俺が心の中で叫んだことは、二人は知らない。
「俺が代わるよ」
本当はそう言いたかった。
しかし、二人の様子はとても自然で、それを妨げるのは返って厭らしいことのように感じられて言えなかった。
俺って案外とシャイなんだなぁ……。自分のことながら再認識した。
考えて見れば、こんな風に恋することなんて今までになかったことなんだから、当然と言えば当然なんだよなぁ。
それにしても、二人の仲睦まじい様子をこれ以上見ていることには耐えられず、俺はポーに後を頼んで、再度真由美さんのマンションへ行ってみることにした。
俺が真由美さんのマンションに着くと、ちょうどマンションの玄関から真由美さんが出て来た所だった。
俺は近くの電信柱に止まって、何気なく彼女を見ていた。すると前方から自転車に乗ったお巡りがやって来て、彼女の横で自転車をスーッと停めると、親しげに彼女に話し掛けてきた。
「おはようございます! 今からお仕事ですか?」
「あ、おはようございます。そうなんです。お巡りさんは巡回ですか?」
「はい、そうなんですよ。最近この辺で、痴漢の被害がありましてね」
「えっ! 痴漢!?」
途端に顔を曇らせる真由美さん。無理もない。昨日の今日なんだから。
そして、そんなことは知らないお巡りも、彼女の表情に何かを感じたようだ。
「どうかしましたか? 相沢さん」
「い、いいえ、何でもありません。――あれっ? どうして私の名前を?」
真由美さんは不思議そうにお巡りを見た。
「あ、いやぁ〜、私の担当区域ですからね。まぁ一応はね――」
妙に慌てたようにそう言うと、「――あはは……」 と苦笑いした。
「まぁそうなんですか? 大変ですねぇ。じゃあ私はこれで。あんまりおしゃべりしてると遅刻しちゃうわ」
そう言って歩き出す真由美さんの後ろ姿に、
「何かあったらいつでも言って下さいよ! 私はすぐそこの交番にいますからー」 と、お巡りは声のトーンを次第に上げながら言った。
その声に、少し先で真由美さんは振り返り、軽く会釈をすると、その後は小走りで遠ざかって行った。
きっと電車かバスの時間が迫っていたんだろう。
真由美さんの姿を目で追っていたお巡りは、彼女の姿が見えなくなると、口の端を片側だけ上げ、にやりと笑った。
その笑いは俺に、何となく不穏な胸騒ぎを感じさせたが、それはほんの一瞬のことで、腹の虫がグゥーと鳴った途端に、意識の中から綺麗さっぱり消えてしまった。
「そうだ。朝から何も食べてなかったんだ。しまった! 寺で鳩たちの餌を少しだけでも失敬してくれば良かった」
今更気が付いても手遅れだ。とっくに無くなっているだろうし……。
仕方なく俺はいつもの餌場へと向かった。そこで何とか腹の虫を満足させると、気分転換にゆるりと街の上空を空中散歩と洒落込んだ。
いつもと変わらぬ街の風景になぜか心が安らぐ。
しかし、見えないところで色んな犯罪が頻発してるんだろうなぁ。そう言えば、今朝のお巡りが言ってたな。痴漢が出たとか……。ふっと思い出して、そのお巡りがいるという交番へ行ってみることにした。
そこは、駅のそばなんかにある交番よりもずっとこじんまりとしていて、中を覗くと、朝のお巡りが一人で何か書き物をしているようだった。きっと巡回の報告書でも書いてるのだろう。
俺は大して興味を感じることもなく、またホワイティの顔を見たくなって、山寺のポーを訪ねることにした。