月下行 中編
既に傾きかけた太陽が一筋の残光を投げかける。深まる薄暮の中、道
なき道を、生い茂る木立の隙間を縫うような獣道を駆ける子供。
裸足の足には酷な道程にも構わず、ひた走る。
立ち止まれば何かに捕まる、とでも言いたい素振りで。
闇に対する素朴な畏怖の念。こんな時刻、こんな場所に一人きりなの
が余計に不安を煽るのだろう。
眉間に刻まれた皺、固く握った拳。その心細さは容易に見て取れる。
けれど────……
もう遅い。意識の片隅が冷静に呟くのを花耶は聞いていた。
闇の支配が濃厚になる。そして灯火に群がる虫のように姿を現せたの
は、鬼火と呼ばれるものだった。
見てるだけで腹の底がジンと冷える。嫌な気がする。
良くないモノだとはすぐにわかった。けれど振り切れない。
走っても、走っても、それは青白い尾を引きながらユラユラと追って
来る。
囚われれば、きっと命を落とすだろう。頭で理解していても、疲労が
足を鈍らせる。懸命に自身を鼓舞しても気力と体力が尽き始める。
スッと、嬲るように鬼火が頬を掠めた。絶望感に飲まれて目を固く閉
じる。その時だ。
「散れ。お前達に用は無い。疾く、去れ」
凛とした声が響いた。と、同時に鬼火は消えた。
炎に炙られた淡雪のように、鬼火は消滅したのだ。跡形も無く。
誰かが、助けてくれたらしい。どうやったのかは謎だが、鬼火を追い
払ってくれたようだ。
助かった。そう思った途端に安堵感で力が抜ける。今更ながらに身体
が震えた。自分を窮地から救った相手を、まじまじと見つめた。
前触れもなしに、突然に現れたそれ。自分を背後に庇うように立つ。
長い銀色の髪がゆったりと流れ落ちる背中。真っ白で上等そうな着物
に身を包み、見上げる首が痛い程の長身の。
一体、誰なのだろう?────立ち尽くす自分を振り返った相手。
「お前のような幼子が、このような場所で一人で何をしている?この
時刻、うかうかしてると妖しの類に浚われてしまうぞ。さあ、早く家
にお帰り」
静かな声音で、やんわりと諭す。けれどその言葉を、自分は半分も聞
いていなかった。
およそ目にした事が無い、整った秀麗な容貌。薄闇の中であっても淡
く発光しているような神々しい姿。
清浄な光をその身に纏っているのがわかった。そして彼自身が人では
無い事も。
神さまだ。そう思った。だから言ったのだ。
「助けてくれて、ありがとう!神さま!」
精一杯の感謝を伝えたつもりなのに、何故か相手は軽やかな声を立て
て笑ったので、不愉快な気分になったのを覚えている。
「あの時は、小さなお前が懸命に伸び上がるようにして礼を言うのが
可愛らしくて、いじらしく思えたから」
つい笑ってしまった、と後になって弁解していたのを思い出す。
言い訳だ、とも思った。思って、拗ねて、顔を背けた。すると慌てて
相手は機嫌を取りだした。
外見に似合わず気さくな”神さま”だった。結局、その時もわざわざ
家まで送ってくれた。
「やっぱり……あんたは甘いわ、氷上」
遠ざかる二人の姿を見送りながら、花耶は苦く呟いた。そしてふと、
疑問を抱く。
千ノ王は氷上だ。間違いない。けれどそれではおかしくなる。出逢い
の記憶が矛盾する。
今、目の前で起こった事が事実なら、自分と千ノ王である氷上はそこ
で初めて出逢った事になる。約束も罪も何も無い、単なる偶然として。
自分が取り戻したと思い込んでいた記憶こそが、偽りなの?何らかの
意図で、作為的に刷り込まれた記憶なの?それとも今ここで見たこれ
が、単なる夢なの?────……
花耶は混乱した。同時にまたも視界が暗転していく。ぐるぐると螺旋
を描いて、意識が何処かへ堕ちていく。そして思う。
ああ、これは夢なんだと。
村には立派な鎮守の森があり、社があった。そこに祀られた神の正しい
名前は知らない。けれどその神が誰かは知っていた。”森の神さま”と
ただそう呼んでいた。
「あたし、来たわ!森の神さま!」
大声で呼びかける。するとすぐに姿を現せて、いつもの穏やかな笑みを
見せてくれるのだ。
「お前はいつも元気だな。それに日毎に大きくなっているようだ」
ふわりと空に浮かんでいた身体を降ろし、目を細めて言う。伸ばした手
で、子犬のように無邪気に懐いてくる頭を撫でた。
「だってね、あたしね、育ち盛りだから!それにもう十一歳になるんだ!
もっともっと大きくなるの!それで森の神さまだって抜かすの!」
それは楽しみな事だと笑う。笑ってその髪を、頬を何度も撫でる。
愛しさが溢れる。何とも幸福な記憶だ。
ああ、まただ、と花耶は思う。また、違う。自分の知らない記憶だ。
自分の知らない顔で、千ノ王が、氷上が笑う。その柔らかな眼差しには
愛情や好意以外の何も見当たらない。
わかる。そしてわからない。
どうしてだろう?これが真実なら、氷上は何故あんな事を言ったのだろ
う?矛盾する、その言動。
戒めを解いた者を喰らったと言った。鬼追いをして、自分を追いつめて、
いつか我が身の糧にすると。こんな優しい記憶はあり得なかった夢だと、
ただの幻想なのだと言わんばかりに。
そしてまた、意識は薄れていく。
「嘘つき」
やっとの思いでそう呟く。けれど同時に涙が溢れてきて、それ以上は
何も言えなくなってしまう。
困ったような顔で立ち尽くしてるだろう、相手の顔が見れない。声を
必死に押し殺していると、いつもの優しい手が頭を撫でた。
「やれやれ、泣かないでおくれ。これは決まり事なんだよ。どうにも
しようがない。俺の一存では決められないんだ。わかるね?」
「わかんない」
憮然と答えれば苦笑する気配。自分が駄々をこねているのはわかって
いても、素直に折れる気にはなれない。だから必死に食い下がった。
「どうして?どうしてダメなの?」
「何度も言ってるだろ?俺はね、こう見えてもこの村の”守り神”なの。
その守り神がな守るべき場所を放棄して、何処かに出かける訳にはいか
ないんだよ」
「ずっと一緒にいてくれるって言った」
「わかってる。約束を忘れたわけじゃないよ。破るつもりもない。けれ
どね、お前に付き添ってここから出て行く事は出来ない。規約違反、に
なる」
本当は一緒に行きたいんだけどね、と言い訳じみて付け加える。相手を
涙の残る瞳で恨めしく睨んだ。
村の用事で遠方に出かける父に同道するのだ。順調に用事が片付いても
二十日はかかると聞いた。下手をすればもっと。
父親と二人きりが淋しい訳でもなかったが、神さまと一緒の方が心強い。
それで一緒に行ってくれと頼んだら、素気無く断られてしまったのだ。
「神さまって案外、不便なのね。どうして出ていける場所って決まって
るの?ずっと同じ場所にいなきゃいけないの?ずっとずっと?」
不満は残るものの仕方無く諦めた。それに安堵したのか、神さまは首を
左右に振った。
「ずっと永遠にって訳でもないよ。契約が切れれば、晴れて自由の身に
なる、かな」
「契約?何?それって誰かと決めてるの?」
「まあね、ずっと遥かに昔の話だよ。今となっては知る者もいないだろ
うね。俺だけ、かな」
想像も及ばない話だった。神妙な面持ちで耳を傾けながら、ふと疑問が
生じた。