月下行 中編
「契約って、いつまで?期限って、決まってるの?」
「年数で区切ってる訳じゃない。言うなら、村人が全て死に絶えて、村
が消滅して……誰も俺を祀らなくなった時、かな。契約の期限は」
何でもない事のようにサラリと言いのけ笑う。その相手に、花耶は胸の
痛みを覚える。
ずっと生きてきた、そしてこれからも生き続けるだろう人。否、神と言う
高次の存在。自分にはとても追いつけない、手の届かないモノ。
同じ場所に立ち、同じ時を共有しても、余りに遠すぎて。
結局、嘘つきじゃない────痛みを誤魔化して胸中で呟く。
ずっと一緒にいてくれるなんて都合の良い事を言って、人に期待させて、
きっと本当には一緒にいてくれない。
望まれたら誰にでも平等に愛を与える、残酷で、優しい、嘘つきな神様。
泣きたい気持ちを隠して唇を強く噛み締める。気遣う眼差しには精一杯の
虚勢で笑みを返す。けれど心は乱れたまま。
嘘つき。嘘つき。嘘つき。嘘つき────繰り返し、繰り返す。
この気持ちを、言ってもきっとわかってくれない。そう思う自分の絶望が
何より辛くもあった。
「本当、嘘つき……あいつ」
自分の声で我に返った。そして気付く。静かに頬を伝い落ちて行くのは、
一筋の苦い涙だった。あの時に流せなかった、涙だった。
もう、わかってしまっていた。それは理屈ではなくて直感だった。が、
奇妙なまでの確信でもあった。
これが真実だ。呼び戻された記憶、自分の知らない情景も、出会いも、
これこそが真実。
「人の記憶を勝手に変えてるんじゃないわよ。あんたに何の権利がある
のよ?あたしの気持ちなんて、お構いなしなの?」
嘘つき氷上、と吐き捨てて花耶は目を閉じた。キリキリと胸が痛む。
少しづつ明らかになる真実の記憶に、責められてるようでもあった。
わからないのは、わざわざ記憶を捏造してまで敵役を演じていた氷上の
本心。まるで自分を憎むように仕向けていたとしか思えない言動の、
その理由────。
疑問に思った瞬間、また意識が遠のく。何度目になるかわからない自失
の感覚の中で、花耶はその名を小さく呼んだ。
目前で光が弾けた。地鳴りのような怒号と、金属が激しく打ち合う耳障
りな音と、甲高い悲鳴、それに子供の泣き声が聞こえる。
光に目が馴染む。ゆっくり目線を巡らせると、そこには無残にも惨憺た
る光景が広がっていた。
戦場さながらの、地獄絵図だ。流されたおびただしい血が、乾いてひび
割れた大地を赤黒く染める。累々と倒れ伏せた死体は男女を問わず、中
にはまだ幼い子供も多く含まれていた。
切っ掛けは些細な事だったと思う。隣接する村同士で諍いが起きたのだ。
夏からずっと続く深刻な日照りで飢饉が起こり、わずかばかりの食料と
水を巡る争い。次第に衝突の回数も度合いも苛烈さを増し、その結果が
これだ。
泥まみれで倒れた子供の、棒きれより細い手足に胸が締め付けられる。
か弱い抵抗は無情にも踏み躙られたのだろう。背中には無数の切り傷。
ああ、これが終幕なの、と冷静に呟く自分がいる。
目前の惨劇に胸を痛めながらも、何かを期待して足が先へ進む。そこに
自らの望む答えがあると、知っていたからかもしれない。
「しっかり!目を、目を開けてくれ!」
氷上の声だ。すぐにわかった。けれど疑問にも思う。
ここは自分の村ではない。恐らく隣の村だ。なのに何故?出てこれた?
疑問はすぐに解けた。見れば鎮守の森がすぐ傍に迫っていた。ここは村
と村の境目だった。元々二つの村は一つだったのだと、以前に氷上がそ
う教えてくれていたのを思い出す。
「死ぬなっ!!俺を置いて、死なないでくれ!!」
悲痛な叫びを聞いた。ゆっくりと近づけば、その理由が分かった。
氷上が腕に抱えているのは、自分だ。過去の自分。一目でわかった。
その身は甚大な傷を負ってる。もう余命は尽き果てたと。
「逝かないで……俺を残して、何処にも逝かないでくれ!頼む!頼む
から!逝くな!!」
全身が泥まみれで、血まみれだ。なのに氷上は狂ったように掻き抱い
て離さない。
そんな必死に、形振り構わず抱きしめたら、あんたまで汚れるわ……
他人事のように呟きながら、花耶はこみ上げる涙を堪え切れなかった。
声を上げて泣きたくて、声を立てて笑いたい。相反する感情が胸を裂く。
困惑しながらも一カケラの冷徹な理性が頭の片隅に残っていた。
どうして、そんなに嘆くの?たかが自分一人を失うぐらいで。
どうして、そんなに苦しんでくれるの?たかが自分一人が消えていく
ぐらいで。
どうして?どうして?────取り乱す姿を見て、この胸を満たす感情
が『喜び』なのだろう?
こんなにも自分の”死”に傷つく相手を見て、不可思議な衝動が込み上
げるのは何故なんだろう?
過去の自分に同調しているのを自覚する。花耶は涙を拭った。
どうして、なんて問う必要はない。もうわかってしまっていた。
「時が過ぎて忘れ去られるぐらいなら、傷になりたかったのよ。醜い傷
跡でも、どんな形でも良い、残りたかった。あいつの中に」
忘れて欲しくなかった。だって、好きだったから。大好きだったから。
身の程知らずの浅ましい願いだったかもしれない。けれど自分が望んだ
のは、本当にそれだけだった。
氷上の見せた動揺が嬉しかった。その心に刻まれるだろう傷に、小昏い
喜びを感じていた。なのに、
「────っ」
氷上は禁忌を犯してしまった。その腕に抱いた身体を地面に横たえて、
留める事の叶わない命を無理に留めようとした。
何処からか取り出した短刀の切っ先を、己が手首に強く押し当てる。
すぐに鮮やかな赤い血が吹き出した。誘われるように滴り落ちて行く先
は、冷たくなり始めた花耶の身体がある。
大きく開かせた胸元、ちょうど心臓の上あたりへと注がれる鮮血。自分
の物ではない血で真っ赤に胸を染めながら、その身体は微動だにしない。
一体、何をするつもりなんだろう?────……
見ようによっては異常な、思わぬ行為に息を飲んで見守る。その花耶の
目の前で、それは起こった。
微かに呻きながら、過去の花耶が身を震わせたのだ。息を吹き返した。
同時に、あれほど胸を染めていた多量の血が、跡形も無く消えていく。
「帰っておいで……お前は、俺のもの。永遠に」
恍惚とした笑み。血の気を失った唇が漏らした囁きを、花耶は茫然と聞
いていた。
「帰っておいで、ここに。どんな姿でも」
構わない、と呟く語尾は密やかに口中で消えた。が、まるで命令に従う
ように固く閉じていた瞼が開く。ゆっくりと身を起こす。
「ああ、お帰り……お帰り」
抱きしめる氷上の腕の中、チラリと覗いた赤い髪。虚ろに見開いた瞳は
金色で────……
無自覚の悲鳴を上げながら、花耶の意識はそこで絶えた。