月下行 中編
いつもの倍増しの速さで身支度を終えた久宝寺は家を飛び出した。
◇◇◇
悪い予感は的中した。花耶の家に人の気配は無く、空っぽだった。
久宝寺は慣れない部類の力を駆使して、その気配を必死に探した。
「通学途中にある公園?あんのバカ!」
苦々しく吐き捨て、久宝寺はまたも全力疾走で駆けだす。
逼迫した靴音が人通りの絶えた夜道に鋭く響く。
「桜庭!?」
公園には結界が張られていた。常人には不可視のそれを力技で強引
に破り、その内部へと踏み込む。
「おや?救いのナイトの登場かな?遅い時間まで、御苦労さま」
「氷上!てめえ?!」
揶揄する口調で労いの言葉を発する相手に久宝寺は拳を固めた。
衣装は”千の王”のまま、氷上はその腕に花耶を抱いていた。
「花耶に何をした?!返答次第じゃ、許さねえぞ!!」
「心外だなあ。まだ『未遂』だよ。残念ながらね」
グラッと花耶の頭が大きく傾いで、氷上の胸元から上腕へ落ちた。
意識を失っているのだろう。まるで操り人形めいた動きだった。
背中を向けてる体勢のせいで肝心の顔が見えない。無事だと確信が
出来ない。久宝寺は内心で焦れた。
「花耶を返せ!」
苛立って言い募る久宝寺に、氷上は声を立てず冷やかに笑った。
「えー?それは嫌だな。お前、後から割り込んできた癖に勝手だな。
お断りするよ。だって『楽しみ』はこれからだからね」
挑発するような眼差しで久宝寺を見据える。瞳が金色に輝き始める。
「やれやれ、仕方ないな。花耶との楽しいお遊びの前に、お前にも
少しは構ってやるよ」
氷上の空いた方の左手が虚空を招く。と、銀色の巨大な泡が生じた。
花耶の身がフワリと宙を漂い、その泡の上に横たえられる。
「夜は長いようで短い。来いよ、稀れ人」
「ぬかせ!今日こそケリをつけてやる!」
言うが早いか、久宝寺は力を右手に凝縮した。渾身の力で氷上へと
ぶつけた。
「ふんっ。つまらないな。お前の力は所詮、この程度か?」
氷上は煩い虫を払うが如く、優雅な仕草で攻撃を『払い除け』る。
間髪入れずに次々と繰り出される攻撃も、難なく防がれる。
次第に荒くなる呼吸に喘ぎながら久宝寺は懸命に相手の隙を探った。
が、圧倒的な力の差は覆せる物ではなかった。
「では、俺も一矢報いるとしようか」
非情な宣告と共に久宝寺はその場から後方へと弾き飛ばされた。
受け身も取れず、舗装した地面に激しく叩きつけられる。
「────っ?!」
衝撃で息が止まる。久宝寺は大きく目を見開き、四肢を硬直させた。
咄嗟に頭部は庇ったものの、全身を強く打ちつけた。意識が遠のき
そうになる。
「おや?ちょっと手が滑ったか。悪いな」
「……くそったれめ」
勝算の見込みなど端から薄かったが、やはり勝てる相手ではない。
挑もうとするなんて、そもそもが軽率で無謀だったのか────?
口内を切ったらしい。無力感と血の味とを苦く噛み締め、久宝寺は
氷上を威嚇するように睨んだ。
「どうした、稀れ人。立てよ。俺を失望させるな」
痛む身体を叱咤して、どうにか久宝寺は立ち上がる。不利な状況で
も屈しようとしない相手に、氷上は楽し気に目を細めた。
「オレはお前が嫌いだ。もう良いよな?ここで、終わりにしよう」
邪気の無い笑みで、悪意の滴る声でそうと告げ、氷上は右手を翳す。
凄まじい力を宿した光の玉が徐々に形を成し、放たれた。
「きゃあああ────っ!!」
久宝寺の防御を退け、正面から襲った光の玉が弾けて散った。
断末魔のような悲鳴が上がり、地面に崩れ落ちたのは……
「花耶っ!?」
二人の悲痛な呼び声が同時に響く。再び遠のいていく意識の片隅で、
花耶は奇妙な既視感を覚えていた。
◇◇◇
夢を見ていた、気がする。随分と長い夢だ。昔に見た映画のようで、
懐かしくもあるような景色が次々に現れては消えていく。
バラバラに千切られた写真の断片にも似て……
何だろう?ここは何処だろう?霞みが掛った頭で考える。そして気
付く。
これは夢だ。だから意味も脈絡もなくて当然なんだと。
それにしても意識が惑う。混濁する。酷く不安定で、心許ない感覚。
頼りなく海流に漂うクラゲのようだった。透明で、無力で、確固たる
輪郭を持たない。ふとした拍子に、溶けだして行きそうになる。正気
も狂気も、何もかもが。自分と言う器を擦り抜けて、何処かへ。
自分を束縛する物のない、何かへ────。
「桜庭?!気が付いたか?!」
覚醒は唐突で乱暴だった。力技で強引に引き戻されたようだった。
いっそ苦しい程に心臓が脈打つ。機能が死に果てていた身体に、再生
の血が一気に流されたようだった。
虚空に迷い出ていた魂が無理に肉の器へと押し込められたみたいに、
全ての感覚が苦痛に思えた。
「おい?どうした?おいっ?!]
苦悶の表情に顔を歪め、弱々しく身を捩る姿に驚いたのか。誰かの手
が伸びてきた。その時になってようやく、自分が布団に横になってる
事に気付く。
「花耶、しっかりしろ!」
「あ……久宝寺?何で?」
血相を変えて詰め寄る相手の顔を、花耶はぼんやり眺めた。
「それよりお前、身体は?痛い所は無いか?一応、あいつが何か手を
打ったみたいだったけど、本当に大丈夫なのか?」
「あいつ?手を打った?」
「お前の無謀さには肝が冷えた。俺を庇って飛び出してきやがって。
俺でさえ、あいつのあんな強烈な攻撃をまともに受けたらどうなるか」
苦々しい口調で久宝寺がそうぼやく。花耶は思い出していた。
そうだった。不穏な気配で目が覚めて、ふと見れば久宝寺がボロボロ
になって氷上と対峙していた。氷上の手から何かが発せられて、無我
夢中で久宝寺の前に飛び出した。身を盾にをして庇って、そして……
「何で?あたし、怪我してないの?」
骨折も打撲も切り傷も、身体のどこにも受けてない。
「だから、あいつだ。あいつが『興ざめだな』とか言いながら、お前
の身体に何かした。力で治したんだと思う」
その後、すぐにあいつは自分と花耶を残して姿を消した。意識の戻ら
ない花耶を抱え、家まで運んだのだと久宝寺は説明した。
「それはそうとお前、あいつに逢いに行ったのか?自分から?」
「……そうよ」
「あいつ、堂々と正体を現せていた。お前、知っていたのか?」
咎める響きで詰問する。久宝寺に花耶は淡く微笑む。また少し、意識
が遠のき始めていた。
「あいつ、あたしが何も知らないと思ってる。バカよねえ。ちょっと
考えれば、わかりそうなもんなのに」
あたしは、あんたでもあるんだから────吐息混じりに呟き、花耶
は目を閉じた。
◇◇◇
また夢だ────そう呟く自分の声を聞く。寄る辺なく意識が漂う。
それでも細切れの思考が、事態を把握しようと微かに足掻く。
誰もいない────否、いる。無音のざわめきのような気配を遠くに
感じる。何かがそこに存在する重み。そしてそれは徐々に近づく。
ああ、これは夢ね、と納得する。誘われるように意識をそちらに向け
れば、すぐに見えてきた。そこに現れたのは自分だった。
随分と幼い。年の頃は十歳前後だろうか?まだ未熟な手足で、何処か
を目指して走ってるようだった。粗末な印象の着物に足は裸足で、姿
も微妙に異なるような……けれど『自分』なのだ。