月下行 中編
「根拠?ないわ。いつからなんて覚えてもいないし。ただ突然、視
えたのよ。あんたの姿にダブる、別の姿みたいな物が。気になって
ずっと視てる内に、それがあんただって氷上だってわかった」
花耶の率直な言い分に氷上は苦笑した。嘲笑に近いそれは自身に向
けられた物だった。
間抜けな事に、先に尻尾を出してしまったのは自分の方だったよう
だ。久宝寺はともかく花耶にまで露見するとは予想外だった。
確かに正体がバレているなら茶番と言われても仕方ない、お粗末な
出来の猿芝居だろう。
花耶の力を過小評価していたのも一因か。防御や攻撃の面で久宝寺
に及ばなくとも、花耶は”視る”事は出来るのだ。うっかり失念し
ていた。否、むしろそう仕向けたのは自分────?
氷上は強く食い縛った奥歯をキリっと鳴らせた。
気付かれるつもりはなかった。気付かれない自信もあった。けれど
心の何処かでは『気付いて』欲しかったのかもしれない。
自分が自分だと。だから無意識の内に隙を、真の姿を垣間見せてい
たのかもしれなかった。
「女の勘、ねえ。それは凄いな。けどまあよく見破ったもんだよ。
褒めてあげるよ、桜庭」
葛藤は己の内に深く沈めた。強いて装った鷹揚な態度に、花耶は少
なからず気分を害したようだった。
「フザけるんじゃないわよ、あたしをバカにしてるの?それで正体
を現さなかったって?」
「バカになんかしてないよ。多少のアレンジはあるけど、どちらも
俺の姿に変わりはない。ただこの件に限っては<以前>の姿でない
と話が通じないだろ?だからだよ」
「あたしがあんたの正体に気付かないって、隠れてこっそりバカに
してたんじゃないの?」
「してないって。本当に都合上の理由なんだって」
何かが微妙に引っ掛かる。まだ納得いかない、と花耶の顔には書い
てある。が、この件に関して深入りして欲しくない氷上は素早く話
を変えた。
「それより俺の姿を戻させてまで……する必要のある話って、何?」
「ん?ああ、そうだったわ。あたし、あんたに聞きたい事と言いた
い事があるの」
故意に逸らされた話題に気付かず花耶は氷上に向き直る。
「まず言いたい事から言うわよ。氷上、これ以上あのバスケバカに
手を出さないで。あいつは体力ナシ男なのよ。しかもあんたのせい
で最近は傷だらけだし。これ以上の負傷はチームにも迷惑なのよ」
突拍子もない花耶の発言に氷上は絶句した。が、すぐに苦笑する。
「なーんだ。犬猿の仲とか吹聴してる割に、二人は仲よしなんだ?
それで気になる訳?まあね、傍目で見てても健気だよ。頑張って、
不慣れなナイトの責務を果たしてるもんね。けどあいつは、久宝寺
はリスクを承知でこのゲームに参加してるんだよ?」
喉の奥を鳴らすようにして氷上は笑う。愉快そうなのは表面だけで、
その瞳は僅かも笑っていない。むしろ冷笑へと変化していく。
「嫌なら止めれば良いんだ。誰も強要なんてしない。するつもりも
ない。桜庭は誤解してるね。俺としてはむしろ寛容な気持ちで奴の
参加を認めたんだよ?それで文句を言われる覚えはない」
つけつけとした冷淡な口調を装っても上辺だけだ。精一杯の虚勢だ。
久宝寺を気遣う花耶の言動に、やり切れない感情が胸に込み上げる。
「あれだけ大見得を切って割り込んできた癖に今更?恥ずかしげも
なく助命を口にするって?笑わせる。しかも桜庭に代弁させるなん
てね。まったくつまらない奴だ。棄権したいならすれば良いけど、
俺をもっと楽しませて欲しかったな。参加させてやったのに意味が
ないよ」
「ちょっと、それこそ誤解よ。別にあたしは久宝寺の奴に頼まれて
きた訳じゃないわ。あたしがあたしの意思で来たの。それに久宝寺
はバカだけど卑怯でも、つまらない奴でもないわよ」
「俺の言い方が気に入らない?なら、謝るよ。けど事実だろ?」
久宝寺を庇おうとする花耶。今更だと苦く思いながらも、そんな
事実に打ちのめされる自分が憐れだった。
「何だったら、桜庭から言ってやれば?お前にはもう無理だって。
取り返しのつかなくなる前に、もう手を引けって。あいつは立派に
健闘したよ。けど力の差は十分に分かった筈だ。己が身でね」
腹の底をジリジリと炎で炙られるような、もどかしさと鈍い痛み。
自制の糸を断ち切りそうなその衝動を嫉妬と言うのだろう。
わかっている。けれど理不尽だと思う。せめぎあい、荒れて波立つ
感情が宥められない。
「そうよ。あたしの訊きたい事の一つ、それよ」
苛立ちのままに氷上は吐き捨てた。その言葉に花耶が反応した。
「何であんたは、久宝寺の参加を許したの?約束は、あたしとあん
ただけの物なのに。どうして?」
「────あいつが、言い出したからよ。俺には絶対にお前を渡さ
ないってね。だからさ。その愚かな情熱に免じて特別に認めてやっ
たんだよ」
思わぬ指摘だった。意表を突かれ、氷上は言葉を濁して顔を背けた。
下手な嘘なら見透かされてしまう。花耶の真っ直ぐなその瞳に晒さ
れているのが、辛くなったのだ。
「余興だよ。あっさり終わったら、つまらないだろ?単なる気まぐ
れさ」
「本当にそう?」
「どうして疑う?俺は退屈してたんだよ、ずっと。だから久しぶり
に得た『楽しみ』を、可能な限り楽しみたいだけだよ」
それ以外の理由なんてない、と呟きながら氷上は緩く頭を振った。
「まあ強いて付け加えるなら、あいつ自身にも興味があったって
事かな。永くを生きた俺にとっても珍しいモノなんだよ。稀れ人
なんて者はね」
「マレビト?何、それ?」
「知らなかったの?あいつは<稀れ人>だよ。不思議に思わなかっ
たか?陰陽師の末裔でもなく先祖返りでも修行者でもなく、常人に
はない力を持つんだよ?稀にしかいない、だから稀れ人」
持って生まれた才能だけで特殊な力を自在に行使できる人間が存在
するのだ。言霊だけで魔を調伏したり、結界を張ったり……
氷上の説明に花耶は目を丸くして聞き入っている。状況を忘れ去っ
て、すっかり感心している姿に氷上は唇を歪めた。
「肝心の説明を一切ナシって言うのが、如何にもらしいけど。で?
久宝寺は何て言ったんだ?自分の力」
「単に『体質』だって。それだけ」
体質────間違いではないが完全に正解でもない。
稀有にして神秘な能力を『体質』の一言で片づける久宝寺も久宝寺
だが、それで納得してしまう花耶も花耶だ。氷上は苦笑いした。
「どっちもどっちって所か……それにしても、あんな尋常でない力
を間近に見て、怖いとか不気味だとか思わなかったの?」
「は?怖い?何で、このあたしがバスケバカ如きに怯えなきゃなら
ないのよ?どんな妙な力を持っていようと、久宝寺は久宝寺よ」
きっぱりと断言する花耶に、氷上は目を細めた。
相変わらず根拠の知れない自信だ。けれどそれを快く感じてしまう
自分がいて、困る。
『俺が稀れ人だろうが何だろうが、どうでも良い。ただ、あいつは
渡さない』
不意に脳裏で蘇った声。不遜とも言えるそれに氷上は唇を噛む。
時を、場所を、違えても……同じ事を言っている。口に出しては互
いに罵るばかりなのに、そうして自然に相手を認めている。
渡さないと言ったのは久宝寺だが、これ以上は傷つけるなと庇った