月下行 中編
「そうか……そうよね」
何かが腑に落ちてしまった。静かな夜の、静かな風に吹かれてる内
に、自分でも思わぬ結論に到達してしまった────ようだ。
胸中に巣くう空しさは確かにまだある。それでも別の所で、心は不
思議な感情に満たされる。
穏やかなそれは諦観にも近く、揺るぎない覚悟にも似ていた。
◇◇◇
「そろそろ、かな?」
履き慣れた黒のデニムにTシャツと言う軽装で花耶は家を飛び出し
た。足の向くままにブラブラと歩く。
行先は決めていない。決める必要はないから。
すぐにアイツは来る────花耶のその予測は、当然の事のように
的中した。ピタリと花耶の足が止まる。
肩甲骨の下辺りがザワザワとざわめくような、どうにも落ち着かな
い嫌な感じ。特有の、既に馴染みになってしまった感覚に花耶は薄
く笑った。
目線を走らせ、素早く周囲を伺う。無意識に通学路へと出てしまっ
たようだ。
少しだけ迷った後、さり気なく道を一筋折れる。数メートルほど先
に児童公園があるのだ。人目につく事を避けたつもりだったが……
相手が相手だけに、無用の気遣いかもしれなかった。
「そこに、いるんでしょ?さっさと姿を現せなさい」
昼間はそれなりに賑わっているのだろうが、人気が無く閑散とした
夜の公園は不気味に静まり返っている。
申し訳程度にともった水銀灯が、遠くから淡い光を投げかける。
「わかってるのよ。出て来なさい」
微弱な灯りのせいだろう。足元から奇妙に長く伸びた自分の影を睨
んで、花耶はそう繰り返した。
「出て来なさい。千ノ王」
それが合図だったように、何かが音も無く目前で弾けた。
まるで大波に煽られた小舟のように、その余波を受けた花耶は上体
を崩した。が、自慢の反射神経ですぐに体勢を立て直す。
「随分と言えば随分なお誘いだな。それに珍しくナイトの姿も見え
ないようだけど。どう言う心境の変化かな?」
ポッカリと夜空に浮かぶ月のように、虚空に留まる黒衣の魔物。
長い銀髪が悠然と風になびき、その白皙の美貌を縁取る。
並外れて整ってるとは言え姿形はまったく人のそれで、その身から
発する微妙に異質な雰囲気と威圧感とが無ければ、とても魔の物と
は気付かないだろう。
「夜道の一人歩きは危ないと、親に習わなかったのか?それとも。
ついに諦める?諦めて、この手に堕ちれば……楽になれるしね」
畏怖の念をも凌駕して美しい魔物。やはり闇に属する血のせいか、
煌々と輝く月の下でいっそ禍々しいほど美麗さを増す。恐ろしくも
蠱惑的なのはその姿だけではない。低く響きの良いその声で甘やか
に降伏と解放を囁きかける。
どんなに強靱な精神の持ち主でも容易く陥落させてしまいそうな、
それ。花耶はグッと強く拳を握りしめた。
「折角の結界なのに、自ら飛び出してきたその訳を聞いてみたいな。
外には俺の手の者が常に張り込んでると、知ってた筈だろう?」
薄い唇が緩やかに笑みを形どる。手招く仕草で右手が動いた。掌に
導き出された炎は、まるで水面に映った朧げな灯。鬼火とも狐火と
も呼ばれるそれが、その眷属であるとは承知していた。
「お前にだって見えるだろうが、アレ自体に大した力は無い。けど
油断するな。偵察用だ。アレは奴自身の目と同じで、すぐに情報と
して伝わるぞ」
久宝寺がそう教えてくれた。花耶は思い出していた。そして少しだ
け申し訳なく思う。
花耶の家、ボロアパートの一室には結界が施されていた。久宝寺の
手によるものだった。
あまり使った事が無い類の力だから、とかなり苦労をしていた。そ
れでも最後には結界としてして有効な物を作ってくれた。
これでこの部屋にいる限りは安全だ。一人の時は可能な範囲ここに
いろ。気安く外へは出るな────。
そう命じた久宝寺の結界は言葉通りに強固だった。だから、朝も久
宝寺が迎えに来るまで待っていたのだが……今は、その安全である
場所を飛び出してきた。それも自らの意思で。
(あのバカ久宝寺、知ったら怒るわね。きっと)
人を射殺すような鋭い眼光で、無言の圧力を掛けてくる久宝寺の姿
を思って花耶は苦笑した。
顔を見れば素直に謝れない。けれどその姿が見えない今なら、悪い
わねと心で告げる事は出来る。さっさと謝罪の言葉を呟いて、花耶
は自責の念を払う。
「あたしに聞きたいことはそれだけ?」
毅然と顔を上げる。眼差しはいっそ挑戦的で、臆した素振りも無い。
魔物は目を細めた。
「それは……どう言う意味?」
「夜は長いけど短いわ。下らない戯言をグダグダ抜かしてると朝に
なるわよ。でもまあ質問には答えて上げるわ。お供がいないのは、
あんたと直接に話をしたかったからよ。あのバカがいると落ち着か
ないしね」
「へえ?俺に話って、何?興味あるなあ。あんなに健気なナイトを
追い払う必要のある話って?」
「あのバカは単に腐れ縁の幼馴染み。ナイトなんかじゃないわ」
あからさまな挑発だったがそれには乗らずに花耶は強い口調で返す。
そして一歩も引かぬ様子で相手を睨みつけた。
「確かにあいつには面倒を見られてる。けど今は、あたしがあんた
に話があるって言ってるのっ!」
「それはそれは。で、肝心の話って?」
「その前にその姿をどうにかしなさいよ。あんたの下らない茶番に
付き合う義理も暇も無いわ。ひょっとしてバカにしてるの?」
「────どう言う意味かな?」
花耶の主張に、魔物は僅かに声色を変えた。薄く笑みは浮かべたま
まで、その双眸だけが不穏な光を帯びて花耶を捕らえる。
「意味も何も言葉通りよ。あんた、このあたしをずっと騙し通せる
と思わないでよ?さっさと正体を現せなさい」
言葉を切って花耶はスッと指を伸ばす。指し示すその先には虚空に
浮かぶ秀麗な魔物。
「それともその姿が本当の姿なの?そうでないなら元の姿に戻れ。
今すぐに!」
怒りを滲ませて花耶は命じる。自信と確信に満ちたその言葉の先を
魔物は静かに待った。
「戻りなさい!氷上 ちはや!」
思わぬ宣告だった。けれど驚きは何故か安堵感にすり替わる。そん
な自分の正直さを、魔物は嘲笑った。
「ふうん。どうやら俺も少し……お前を侮っていたかな?」
呟くと同時に長かった髪が短く、黒くなる。微妙に姿がブレたかと
思うと、次の瞬間には花耶の知る『氷上』の姿へと変じた。
「とっくに俺の正体を見破っていた?いつから?」
時代がかった装束は、狩衣と呼ばれる物に似ていた。髪型は同じ
でもその服装のせいで印象が違う。が、それは間違いなく星陵の
”氷上 ちはや”だった。
「ふんっ、女の勘を舐めるんじゃないわよ。気付いたのは……それ
ほど前でもないけど」
フワリと空に浮かんだままの相手を鋭利な眼差しで射抜く。花耶
は両の拳を固く握った。
正直言って賭け、だった。
見事に的中してしまって、逆に自信が戸惑ってもいた。
千ノ王は氷上────疑っていたとはいえ、実際に目の前にしても
信じ難い事実だった。
「女の勘?本当にそれだけ?確かな根拠と言える物は無いの?」
少しだけ落胆した様子に、花耶は眉を顰める。
相手が自分の答えに”何か”を期待したのはわかった。が、それが
何かまでは、わからなかった。