月下行 中編
みっともなく声が掠れてしまったのは仕方ないだろう。
本当はずっと恐れていた。相手は見えない刃で、不可思議な力で攻撃して
くる異形の存在だ。自分一人なら、とっくに『終わっていた』だろう。
悔しいけれどその確信はある。けれど久宝寺がいてくれたから、そのもの
全力で守ってくれたから……
とは言え相手が悪過ぎた。それなりに久宝寺も特殊能力を持っているよう
だが、相手は<千の魔物の王>とも呼ばれる魔物だ。両者の力の差は歴然と
している。
自分も久宝寺にとっても、これ以上は冗談抜きで生死に関わる。事の重大さ
を思って花耶は唇を噛み締める。
「それでも良いって言ったら?」
「────どう言う意味よ?」
聞き捨てならない久宝寺の発言に花耶は勢い良く顔を上げた。怒りを込めた
目で鋭く久宝寺を睨みつける。
「死んでも良いって言うの?それ、本気で?」
認めたくないが相手は圧倒的な力を持つ。その気になれば、久宝寺が自分と
共倒れになるのは必至だ。怪我程度で済めば良いが命を落とす事にもなりか
ねない。そこまで他人を、久宝寺を巻き込む訳にはいかない────。
苦悩する胸中を、目の前のこのバカは知らずにいるのだろうか?そう思った
瞬間、猛然と腹が立った。花耶は久宝寺に詰め寄った。
「許さないっ!そんなの、絶対にあたしは許さない!!」
悔しくて、腹立たしくて、情けなくて、花耶は込み上げる涙を必死に堪えて
叫んだ。
「絶対に許さない!そんな、そんな軽々しく『死んでも良い』なんて。言わ
さない!もうこれ以上、勝手なんかさせない!勝手に死なせたりもしない!
あたしの為に、勝手に、痛い目にばっかあってんじゃないわよ!!」
無力な自分が悔しい。守られてばかりいる自分が腹立たしい。知らず、安全
な場所に匿われてしまう自分が、本当に情けない。
色んな思いが錯綜して、頭は混乱して、苦しい。けれど同時に覚悟にも似た
一つの決意が生まれてもいた。
久宝寺に『死んでも良い』なんて言わせてしまう自分が嫌だった。だから、
久宝寺は死なせない。何としても、絶対に。なのに、
「俺だって許さない。お前をアイツに奪われるなんて、絶対に許さない」
久宝寺が呟くようにそう漏らした。激昂する自分とは正反対の淡々とした
口調だった。それでもそこに込められた感情が予想外の物で、花耶は怒りも
忘れて戸惑った。
「な、なに?あんた、何言ってるのよ?」
「どんな理由も認めない。お前を奪われるなんて真っ平だ。けど、言ってし
まえばそれは俺の都合だ。だから気にする必要はない。俺は、俺の為にやっ
てる。お前の都合だって本当は考えちゃいない」
随分と情熱的な、聞きようによっては立派な口説き文句にも聞こえるそれだ。
驚きの余り涙が引っ込んだ花耶は、大きく目を見開くばかりだ。
「そう簡単に死ぬつもりははい。けどもし、どうしてもダメになった時は、
お前も道連れだ。絶対にあの野郎なんかには渡さないからな。覚悟しとけ」
誰かに奪われるぐらいなら、お前を殺して俺も死ぬと。そう言う事なのだろ
うか?そんな陳腐なラブソングのような、けれど一途で情熱的な感情を、目
の前のこの男は自分に抱いてると、そう言う事────?
花耶はどうにも信じ難い気持ちで相手をまじまじと見つめた。
相変わらず嫌味なぐらいに整った端整な容貌だ。表情に変化は乏しいながら
も真剣な様子で、とても嘘や冗談を言ってるようには見えない。
キツネにつままれたような、とはこの事を言うのかもしれない。花耶はぼん
やり思った。
確かに冷静に考えてみると、久宝寺の言動は最初からおかしかった。単なる
腐れ縁の幼馴染みである自分へ、献身的なまでに身を呈して守ってくれて。
その動機がわからなくて正直、戸惑ったけれど……
自分に対する執着の訳を、当の久宝寺はわかっているのだろうか?その感情
に名付けられるのだろうか?花耶は困惑した。
「あんた────バカじゃないの?」
ようやく絞り出した言葉がそれで、さすがに久宝寺は憮然とした。
「お前はアホウだけどな」
「言ってなさい、バーカ」
何を言っても聞く耳を持つ気は無いらしい。久宝寺らしいと言えば余りに
『らしい』その言動に呆れてしまう。花耶はもう笑ってしまった。
「バカだバカだと思ってたけど、そこまでバカとは思わなかったわ。本当、
ウルトラバカ久宝寺!」
「煩い。やる前から勝負を投げ出す、どっかの臆病者よりゃマシだ。何だよ。
さきまで俺が死ぬかもって半ベソかいてた癖に」
「誰が泣きベソなんか?!」
「お前だ、お前。あほ花」
揶揄するようにそう言って、久宝寺は手を伸ばす。すぐ間近に迫っていた
花耶はあっさり捕まった。
「ちょ、ちょっと?!何すっ!?」
悔しいが他意格差は歴然とある。完全に抑え込まれると歩が悪い。
拘束するように強く抱きしめてくるその腕を振り解けなくて、花耶はジタ
バタと抵抗する。
往生際が悪い────久宝寺は花耶に気付かれないように口元を緩めた。
往生際が悪には自分も同じだ。負けず嫌いなのも同じ。誰に何を言われて
も、自分の選んだ道しか進めないのも。
勝ち目の薄い不利な勝負だとわかっていても、やらずにいられないのも。
けど、だからこそ信じてもいる。花耶を奪われない為なら、自分はどんな
相手と立って戦えるのだと。そして最初から『負ける』気で勝負するつも
りもなかった。
「俺は死なないし、負けない。心配するな」
抱きしめる腕に力を増す。想いを込めてそっと告げる。反論の言葉を失い
大人しくなった相手に、久宝寺は柔らかな笑みを浮かべた。
◇◇◇
テレビも見ずにボーッとしていた。チラリと時計を一瞥する。
いつもなら帰宅してるか、してないかぐらいの時間だ。
手持無沙汰な感じだった。ぼんやりしてるのに、頭の中では必死に
何かを考え続けてるような、けれど心は虚ろなような、奇妙な不均
衡。強固な筈の心身の繋がりが解けかかる。自分で自分を持て余す。
夕食を摂って、後片付けをして、風呂に入って……
一通りの事を済ませると、やる事がなくなってしまった。それでそ
のまま呆けていた訳なのだが、ふと誰かに呼ばれた気がした。花耶
は窓へと顔を向ける。
元は青色で、今はすっかり水色に色褪せてしまったカーテンを波打
たせる風に気付く。
深海に漂うクラゲのような、見てるだけで涼しげなそれに誘われて
立ち上がる。広くも無い室内なので、きっちり三歩で窓際まで辿り
着いた。
「なーんか、風が変わってきたかも」
最近、目に見えて日も短くなってきた。傾き始めた太陽が眩しい程
に鮮烈な残光を投げかけ、空を茜色に染めていたのに、次に気付い
た時にはもう群青色の闇が辺りを包みこんでいる。
全てを焼き尽くすような灼熱の夏が終わり、静かに満ち足りていく
秋の気配が間近に迫る。そして空には月。
「月が出てる。キレー」
新月ほどではない。が、まだ少し痩せ加減の、満ちかけの月だ。
晴れ渡った夜空を一人、健気に照らす。
澄んだ水のように適温の風が心地良い。目を閉じてそれに身を委ね
ると、何もかも忘れてしまいそうになる。痛みも、悩みも、何も。
「やっぱ、ダメね」
ポツリと呟いた自分の声に自分で驚いた。けれど同時に納得した。