夢の途中6 (182-216)
香織が大場サトの自宅に到着した時、孝則と木島を載せた救急車は既に1時間近く前に発っていた。
「あ、花田先生の奥さん!すんまへん、ウチのばあさんが往診頼んださけえこんな事になってしもて・・」自宅の前で立っていた男の中に大場進一が居て、香織の姿を見てけて詫びた。
『そんな事・・・おばあちゃんの所為ではありませんよ・・・院長先生は武庫川病院に行くとおっしゃってました?』
「へェ!きっと後から花田先生の奥さんが来るよって、行き先は武庫川病院や言うとけっていわはりました!」
『そうですか・・・でも、困ったわね・・・タクシー拾えるかしら?・・・』
「奥さん、ウチの息子がバイクで病院まで送りますよってに!ひろし、はよ、来んかい!」
父親に怒鳴られたサトの孫・大場ひろしが大型バイクを押してやって来た。
確か父親と同じケミカルシューズの工場で働く、今年成人式を迎えた青年だった。
香織も彼がまだニキビ面の中学生の頃から医院に通っていたので顔見知りであった。
[コレ・・・・・・]ひろしはぶっきら棒に香織にフルフェースのヘルメットを渡した。
ブルンッ!ブルンブル~~~ンッ!
ひろしの大型バイクが大きな爆音を響かせる。
[さあ、後ろ乗って!僕の腰にしっかり掴まってや!]
香織はひろしの腰に両手を回し、しっかり掴む。
「ひろし、無事、奥さんを病院に届けんねんぞ!頼んだぞ!」父進一は息子を睨むように激励した。
フルフェースのメットを被ったひろしは無言で親父に右手の親指を立てた
「お、香織さん、来たか!」
受付から看護婦に案内されてひろしと手術室までやって来た。
その前の長いすに白衣姿の木島が疲れた表情で坐っていた。
『院長先生、花田は?花田はクモ膜下出血なんですか?』
「・・・うん、十中八九間違い無いな・・・今、脚の付け根からカテーテル入れて造影剤注入しとる・・・ま、楽観はでけんが、此処の脳外科の技術は結構なモンや、心配することあらへん・・・・お、ひろし君、ご苦労やったのォ・・・」
[・・うん・・・・]ひろしはただ肯くだけでその場を動こうとしなかった。
三人が手術室の前の長いすに並んで座り2時間程過ぎた時、手術室からあわただしく医師が出て来た。
「佐藤君、どや?」
木島は手術着で長身の医師に尋ねた。
〈ご家族の方は?〉
『花田の家内です・・・』香織が一歩前に歩み出る。
〈それでは只今の状況についてご説明しますので、アチラのカンファレンス室でお待ち下さい。〉
事務的にそれだけ言うと佐藤医師は着替えの為に歩き去って行った。
木島と香織は佐藤が指差した【カンファレンス室】に入り、勝手に長机の前の椅子に腰かけた。
部屋に入り、香織はひろしの姿が無い事に気が付いた。
当然の事ながら直接の関係者では無いひろしで在ったのだから入室は憚れたのだろう。
香織は此処まで送ってくれた礼を言い、帰って貰う為声を掛けよと再び部屋を出た。
そこにはひろしの姿は無かった。きっと状況を察して、声を掛けずに帰ったのだと香織は思った。
暫く部屋で木島と二人で待っていると、白に着替えた佐藤医師と他に若い2人の医師と、この病院の院長で在り木島の大学時代の後輩である園田総医院長の四人が部屋に入って来た。
「園田君、こちらが花田君の奥さんで香織さんや。ウチの病院で看護婦もしてくれてる。」
[初めまして、園田です。奥さんも看護婦さんならこれからお話しする事の大体の状況はご理解いただけると思います。じゃ、佐藤君、お願いするよ。]
〈分かりました。 花田さんの病名はやはり【クモ膜下出血】でした。木島先生から花田さんのお母様もクモ膜下出血で亡くなったと聞き、その疑いを感じながら検査しましたが、血液造影剤・CTによる検査で花田さんの脳動脈瘤破裂の場所が特定されました。
正直申し上げて、かなりの出血の量の様です。現在はカテーテルによる血液凝固防止剤を注入して、血栓の融解に勤めていますが、緊急に開頭手術をして血栓を取り除き、出血を止めないと命の保証は出来ません。 また手術に成功しても後遺症が残る可能性もあります。 それをご理解の上で手術のご承認をお願いします。〉
『・・・後遺症は兎も角・・・主人は助かるんでしょうか?・・・・・』
香織は今医療従事者ではなく、生命の危機に立たされた男の妻として聞いた。
[・・・・最善を尽くします。 今はそれだけしか申し上げられません。]
『・・・宜しくお願いします・・・・』
香織は深々と頭を下げた。今はもうそうするより他無かった・・
後はこの医師の技量と、夫の生命力を信じるしかなかったのだから・・
孝則の手術は運び込まれてから3時間後の夜8時から行われた。
木島の妻幸子も、当座の着替えや日用品を何とか揃え、やはり近所の住民の伝手で車を手配して貰いやって来た。
総院長園田の計らいで、香織達は最上階の貴賓室を控室にあてがわれた。
[香織さん、食べられへんやろうけど、無理してでもひと口お食べ?]
母の様な眼差しで木島幸子は持参した握り飯を香織に薦めた。
『・・・有難う御座います・・・・』
香織は幸子に薦められるまま握り飯をひと口頬張った。味は分からなかった・・・
窓の外を見ると暗い闇の中を白いものが舞い始めていた。
孝則の母・登美子が亡くなったのも3年前の年の暮れ、今日の様に雪が降る寒い朝の事だった。
登美子は栃木の裕福な家庭に生まれ、文字通り≪乳母日傘≫で育てられて来た。
花田家の嫁となった後も、常に傍に家事をする家政婦も居て、自身はお茶やお花に芝居観劇と、趣味で一生を過ごした女であった。
それでも夫・巌の世話や独り息子の孝則の世話は、家政婦には任せず自らの手でしたが、日常的な運動不足は否めず、40歳を過ぎた頃から太りだし、血圧は常に高めであった。
クモ膜下出血や脳卒中が遺伝するものかどうかは医学的に意見の別れるところでは在ったが、統計上血縁者にそのような病歴が在る場合、同じ疾患に罹る可能性は高かった。
孝則の場合、普段の血圧は正常値の範囲で在ったが、震災から1カ月、自身が被災者でありながら、地域に根付いた診療所の医者と云うこともあって、肉体的・精神的な疲労は計り知れなかった。
木島にしても香織にしても、孝則同様体力的にも精神的にも何度も限界を超えた1か月ではあったし、誰が今の孝則の代わりに倒れたとしても不思議ではなかったのだ。
手術が始まって8時間経過した午前4時頃、控室に脳外科の看護婦が飛び込んで来た。
[佐藤先生がお呼びです。至急手術室までお越しください!]
香織と木島夫妻は慌てて最上階から1階の手術室へ向かった。
手術室に向かうとその前で、執刀医の佐藤医師が手術着のまま香織達を待っていた。
総院長の園田も傍に居た。
<さあ、どうぞ・・・>佐藤は手を広げて先ほどのカンファレンス室に3人を導いた。
園田も同席した上で佐藤が口を開いた。
<花田さんの脳の中の動脈瘤は予想以上の数が在り、そして非常に脆い状態でした。
一応総ての動脈瘤の出血は止まりましたが、次に出血した場合手の施しようがありません。
現在は生命維持装置により延命出来ていますが、無論自発呼吸はありません。
作品名:夢の途中6 (182-216) 作家名:ef (エフ)