ノブ ・・第1部
だめだ、黙ってられない。
「ゴメンな、本当はさっき少し思い出してたんだよ」
「分かっとった、でも・・・いいと」
「アンタが悪いワケでも、その彼女が悪いワケでもないんやけね、勿論」
「・・・・」
暫く、黙って肩を抱かれていた恭子が言った。
「な、アンタ」
「うん?」
「ゴメンけど、暑いっちゃ」
あはは、そりゃ悪うござんしたね!いいよ、もう肩なんて抱いてやらないからな・・とボクがふざけて笑いながら言うと、恭子は「そやね!もう少し、涼しくなったら抱かせてやるっちゃ!」と切り返してきた。
ボクらは、また笑いながら手を繋いで歩いた。
店は万世橋の手前にある、まつやという店だった。
入学直後、両親と一度来たことがあった老舗の蕎麦屋だ。
でも、老舗のくせに気取らない雰囲気が良かったから、いつかまた来ようと思っていたのだ。
店は昼過ぎというコトもあり、店の正面に向かって右の入り口には数人の待ち列が出来ていた。
「うわ、待っとるとやね・・って事は、美味しいん?」
「うん、オレはうまいと思うな!」
ふ〜ん、東京のお蕎麦か・・楽しみっちゃ!と恭子は微笑んだ。
五分ほど待って、ボクらは店の中に案内された。
この店は、卓が多くて通路が狭い。
また混んでる時は、相席は当たり前だった。
オクらは渋い印半纏のおっちゃんの横に案内された。
おっちゃんは、徳利と猪口で、一人で粋に呑んでいた。
「美味しそうっちゃ。」
恭子は、オッチャンのつまみの味噌と徳利を交互にを見ながら聞いた。
「お酒、美味しいですか?」
おいおい、恭子さん・・・
「お、姉ちゃん、一杯いくか?」とおっちゃんは恭子に猪口を差し出した。
「いいんですか?頂きます!」
あ〜あ、恭子はおっちゃんの猪口を嬉しそうに受け取って、燗酒を呑んだ。
「いけますね、昼酒も・・」
「ははは、面白い姉ちゃんだな!どうだ、あんちゃんも、いくか?」
こうなったら・・・仕方ない。
「はい、頂きます」ボクもご相伴にあずかった。
確かに恭子の言う通り、ほんのりと香るうまい酒だった。
燗酒なんて・・・初めてだったかもしれない。
「ね、うちらも頼まん?」
「いいけど、恭子、さっきまで酒が残ってるって言ってたじゃん」
「いいっちゃ!美味しいんやけ。な、頼も?」
はいはい・・お姉さん、お銚子、一本下さい!
「あんたら、恋人同士だろ?」
「はい」
「兄ちゃん、この姉ちゃん、大事にしろよ?!」
「この子は、多分、上げ万だぜ」
「ん?アゲマンって、なん?」
「いや、オレも分かんないよ」
「ははは、後でどっかの年よりにでも聞いてみるこった!」
んじゃ、またな!と半纏のおっちゃんは勘定を済ませて店を出て行った。
「なんやろね、アゲマンて」
「うん、分かんないな、オレも」
・・・お待たせしましたと燗酒が運ばれてきた。
ボクらは、お互いの猪口にお酌して呑んだ。
「うん、美味しいっちゃ!」
「ほんと、いけるんだな・・お燗した日本酒って、オレ初めてだよ!」
「うちは、飲んだことあるけね」
九州は酒飲みが多いけね・・と笑って、グイっと猪口を空けた。
「ほんと、いい呑みっぷりだよ、恭子さん」
「でもな、気ぃつけな回るけ、昼酒は」
ご注文は?と店のお姉さんが注文を取りに来た。
「恭子は?」
「温かいのと冷たいのと、どっちにする?」
「うち、よう分からんから、アンタに任せる」
「じゃ・・・ざる一枚と天ぷらそば、あと親子丼下さい」
はい、とお姉さんが引っ込んだ。
「アンタ、ご飯も食べると?」
「うん、腹減ったもん!」
「ちゃ、大食いやね」と手酌で盃を重ねる恭子は言った。
「恭子には言われたくないな、大食いはどっちだよ!」
はは、いいっちゃ、お互い様っちゅうことで・・とケラケラ笑う恭子。
もう出来あがったのか?
ボクは恭子から徳利を取り上げて、手酌した。
「面白かね、さっきのおっちゃん」
「はい、注いで?!」
恭子は猪口を差し出した。
「大丈夫か?そんなに飲んで・・」
「平気、うち高校生の時に、一人で五合位飲んだことあるけ」
五合ったら、半升じゃん!凄いな、恭子は・・・と驚いたら、「でもな、その後、しばらく記憶が無いっちゃ」と舌を出した。
お待ちどおさま・・・二つの蕎麦が運ばれてきた。
「どっち、食べたい?」
「ん、うち冷たいの」
恭子の方にざる蕎麦をやって、ボクは天ぷら蕎麦を食べた。
蕎麦をたっぷりとつゆにつけて、恭子は食べた。
「美味しい・・けど、辛いっちゃ!」
「あ、つゆにつけ過ぎだよ。下半分だけつけて食べてみな?」
恭子は言われた通りにして食べた。
「うん、これなら、丁度良か」
「こっちの蕎麦つゆは濃いからね・・ちょっとでいいんだよ、つけるのはさ」
「そうなんやね」恭子は美味しそうに半分食べて、言った。
「アンタのも食べたい」
ボクは天ぷら蕎麦と交換した。
「美味しいかね、こっちも」
「天ぷらが香ばしいっちゃ。ごま油?」
「かもね、良く分かんないけど・・」
ダメやね〜江戸っ子のくせに・・と恭子はアっと言う間に蕎麦を平らげてしまった。
「あ〜あ、オレの天ぷら蕎麦」
「いいやん、アンタはまだ親子丼がくるっちゃろ?」
それは、そうなんだけど・・・ね。
恭子は、また手酌で燗酒を飲んだ。
そして親子丼が運ばれてきてボクは聞いた。
「これは?食べてみる?」
「いいっちゃ、うち、飲んどくけ・・・アンタ食べり?!」
また、とったら怒られそうやけね〜とグイっと猪口を上げた。
そして、「お姉さん、お銚子、もう一本!」と声を上げた。
結局、ボクらはお銚子三本と、蕎麦二つと丼物・・・随分、飲んで食ったもんだ。
「ふ〜、いい気持ちや」
店を出たボクらは、ノンビリゆらゆらと少しあやしい足取りで散歩しながら帰った。
「ただ今〜!」恭子は自分の部屋を開ける時、上機嫌に言った。
そして、そのままベッドにうつ伏せに沈没した。
「ほら、だから言ったじゃんよ、飲み過ぎだって」
「えへ、いいやん、夏休みなんやけ・・」
そりゃ、そうだけどさ。
恭子はベッドの上に仰向けになった。
「アンタ?」
「なに?」ボクはダイニングで一服していた。
「こっち、こん?」
「いいけど、今、一服中・・・」
「いや〜ん、こっち来てうちにも吸わせて?!」
もう、酔っ払いが・・・ボクは笑ってベッドに行った。
「はいよ、来たよ」
「タバコ吸わせて」
仰向けの恭子の唇に、セブンスターをあてがった。
ス〜と吸った恭子は、いきなりむせた!
「いや〜、これじゃないっちゃ!」
「なに、セーラムがいいの?」
うん、インポ煙草吸いたい・・・とケラケラ笑って言った。
「ばか・・」
ボクはセーラムを取ってきて、火をつけてやった。
仰向けのまま、恭子は深く吸いこんで、ゆっくり吐き出した。
「ふ〜、美味しいっちゃ、こっちの方が」恭子は目を閉じていた。
「やっぱり、昼酒は効くっちゃんね」
「それ自分で言ってたじゃん」
恭子は目を閉じて微笑んだまま、メンソールをくゆらせていた。
独白