水相
私は、白い壁のギャラリーに立っていました。白いワンピースを着て、合板張りの床に立っていました。
目の前には「相-寒-」と「相-涼-」の二枚の絵がありました。雨はおろか、一滴の水すらありませんでした。振り返るとギャラリーの窓から、下北沢の町並みを行き交う人々の姿が見えました。
壁の時計を見ると19時を9分回っていました。
「ずいぶん長いこと見てたね。この絵が気に入ったのかい?」
ギャラリーの管理人らしい老人はそう言うと、眼鏡を押し上げて自分も絵のほうを見ました。
私はどうやら、絵の世界に入り込みすぎて、戻ってこられなくなっていたようでした。
「鑑賞する」ということは、主体が対象を客体化し、それを主体による言葉で外に発信することで成り立っているのだと思っていました。即ち、対象には客体として静止する瞬間があり、表出するという働きは主体だけができることで、主体が主体たる所以ですらある、と思っていたのです。
しかし、本当にいい絵というのは、こちらの意識の中で勝手に動き出し、自らの感情を訴え、私たちの主体という意識さえものっとるのです。そのとき、私の存在は主体性はおろか、客体性も失い、ただ影のように意識の一番底のほうで無力に横たわっているのでした。
ギャラリーを出ると、私は駅の方へ向かいました。日が落ちたばかりの商店街には、これからどこで食事にありつこうかと店をのぞきながら歩く人々が溢れていました。軒先には今日のお勧めメニューを照らす小さなスポットライトが競うように灯っています。