小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

水相

INDEX|1ページ/2ページ|

次のページ
 
【当館のアーキテクチャ】
面積:東西7.2m 南北7.2m
構造:レンガ組積
内壁:漆喰
階数:地上1階
天井高:3.6m
天井:なし
床材:オーク
用途:美術館

[収蔵作品]
東壁:「相-涼-」(2008)  アクリルガッシュ
西壁:「相-寒-」(2008)  アクリルガッシュ

「相」のシリーズでは、首より下の衣服に当たる部分が描かれていない。
和服に頼らずに和を表現することに挑戦している。
また、「相-寒-」と「相-涼-」の絵の背景は互いに繋がっている。
左右どちらに置いても、二つの「相」の境界線は消えてしまう。

栗毛色の青年と柳・蓮・朝顔・蛙・金魚が描かれた「相-涼-」。
黒髪の女性とサルスベリ・椿・イモリ・白蛇・なまず・白兎が描かれた「相-寒-」。
正面を見据える両者の視線は、向き合って掛けられることでみつめ合っているようにも、より一層ここではないどこかを見ているようにもみえる。



 ――私。の存在。
 「見る」主体によって、それを証明します。
 知覚したもの、知覚した私を他者に伝えることで、その存在は他者から見えるものになります。

「なぜ私を見ない? 魂を返して欲しくはないのか」
「…興味がない。話す気もない」
 桶をひっくり返したような水の音が響く。西壁の女性が描かれた「相-寒-」から東壁の青年の「相-涼-」の方へ、床に一直線に水しぶきが飛び散っていく。水の跡は伸びた直線の左右に、細く鋭いひれ状の水跡を残していった。竜が走ったのかと思わせる、異様な跡がオークの床に残った。びちびちと、あるところでは水が沸き立ち踊り、まだ音を立てている。

 ――「見られる」客体は、声を持ちません、その「見る」瞬間における私という主体の存在によって。
 客体自身が主張をすることもあるでしょうが、それは私が「見る」という瞬間には封じられているものです。封じられていることによって、私はそれを「客体化」し、「見る」という行為が可能になるのです。

 べたっ、べたっ、べたっ、べたっ。
 じっとりと水気を含んだ足音が東壁のほうから移動している。中央に近づき、また東壁の方へ遠ざかる。
 床に粘着した足は、踵が上がると水を持ち上げてぴちゃ、ぴちゃ、と小さな音を立てた。床には素足で歩く男の足跡が増えていく。
「止まれ」
 女の声が命じたが、足音が止まることはなかった。

 ――美術館という場所において、主体は「見る」私であるはずです。「見られる」のは鑑賞される作品。
 作品は静止し、客体化されるのを待っています。そして私は、作品を客体化するために主体性を以て動き始めます。
 私は言葉を発し、自分の主体性の存在を証明します。それは鑑賞者と作品の間にある至って普遍的な関係です。
 しかし、ここでそれはまったく通じないようでした。
 私はこの場所では、言葉を持てない、ただの影でありました。

 虹色に輝く帯がはためいて部屋を横切り、それを無数の小さな鈴の鳴る音が追いかけた。光の粒が零れて鳴っているような、透明な、甲高い音だった。
「魂が返らなければ、おまえはずっとこの土地に縛られたままなのだぞ。その着物は冷たい川の水にさらされ続け、おまえの頬は降り止まない雨を受け続ける。未来永劫、その身が受けた苦しみが消えることはない」
 女の強い語気は、言葉の最後でわずかに消えた。じっと息を呑んで何かを待っている。
 青年と、女の眼が合ったのだ。
 青年ははっきりと、今までの吐息めいた声ではない低い声で言った。
「それでいい。そうなることを望んでいる」
 女の唇が震えている。空を黒い雲が駆け始め、やがて轟き始めた。白い光が壁も床も覆った。再び部屋に色彩が戻ると、巨石を転がしたような轟音が響き、矢を射るような雨が降ってきた。

 ――私の姿は、あの二枚の絵からは見えていないようでありました。
 というよりも、存在そのものがないようでした。
 始めに女が青年にかけた水は明らかに私の体に当たっているべきでしたが、水は私に当たることはありませんでした。私はここでは実体を持っていないのです。
 ただ、ここで一つお断りしておきたいのは、だからといってこの女と青年がこの部屋において肉体を持っていたわけでもありません。彼等は、あくまでも絵でありました。壁に向き合って掛けられている、二枚の絵に過ぎませんでした。
 しかし、彼等の思想や出で立ち、振る舞い、そして言葉は私のなかに容易に、絶え間なく入り込んでくるのです。

 雨がオークの床を覆い始めた。点在していた雨の染みは繋がり、大きな輪になっていく。雷の音は更に近づき、時々強くなる雨脚が風によって寄せては引いた。
 ――私は少しの焦りを感じました。いま気がついたことですが、この場所には入口も出口もありませんでした。その上、天井は無いのですから、雨はこの場所にそのまま溜まっていきます。ここは水槽のように、降った雨を漏らさず蓄えていくことでしょう。
 いいえ、大丈夫よ。落ち着いて。
 私は言い聞かせました。水が私を通り抜けたのだから、雨も私に触れられないはず。私はそう思っていました。

「人間の女のどこがいい。それとてもう二度と会えぬ黄泉路の遙か先を歩いているというに。何が気に食わぬのだ。傍に仕えさえすれば魂も返してやると言っているのだぞ」
――私が雨に気をとられていたのも束の間、今度は女の感情が洪水のように雪崩れ込んできました。「あの女に何ができる? 奉納のための絹を織ることぐらいではないか。祈らなければ畑を守ることさえできない。歌も満足に歌えない。たかが鉄砲水であっさりと命を落とす虚しい命ではないか」
 雨はあっという間に水かさを増していきます。私は――苦しい訳がありません。ここに、私の存在はないのですから。
 高い鈴の音が鳴りました。その音は際限なく、大きく、激しくなっていきます。頭が割れそうでした。耳を塞いでも、その音は入り込んできます。
 青年は、何も答えずにただじっと正面を見据えています。雨は私の胸まで浸しました。女が手を伸ばしたのが見えました。すると溜まった雨がごうごうとうねり始めました。青年は涼しい顔でまだ正面を見据え続けています。青年は水など無関係なようでした。私は「あっ」と叫び水を飲みました。女の声は、もう女の声のかたちをとっていませんでした。ひゅううと鳴る風の音となり、悲痛な声を上げていました。ついに足が浮きました。私の足は、溜まった雨水にさらわれたのです。それは私がこの世界に「実在」しているということでした。「溺れる!」私が思ったときにはもう遅すぎました。雨水は私の頭を飲みました。伸ばした手が宙をかきました。息が水泡となって上っていきます。どうして? ここに「在る」はずのものはなんだったの? なぜ「あの二人」には私が見えていなかったの? そのとき、「蛍の光」のメロディが響き渡りました。「間もなく、閉館のお時間です――。」ゆったりとしたメロディが水泡で白く包まれた視界のなかで響きます。激しく波に体を揺さぶられました。
 そして、私は肩を叩かれました。「そろそろ、閉めたいんですがね。」
作品名:水相 作家名:深森花苑