第9
単語が、別の言葉を生み、その言葉が、また、別の言葉を生み
その折重なった、集大成が人間社会の営みであり、思想であり
科学技術である。
言葉なしに何ものも、生まれはしない、善も悪も、愛、平和、自由
正義、彼我、是非そして建築物、生活用品、神、悪魔、思想、精神
心、喜怒哀楽、生死、全て・・・・
これ等に関する言葉と、定義の約束があるので、それに則った
思想が、生まれ、物質が生まれ人間の社会が生まれ
現代21世紀の科学技術が生まれ現存する・・・・
全ては、言葉の上に構築されているのが人間なのである、そして
僕という存在も、この様な文章を綴る僕も、考える僕も
行動する僕も、なまける僕も、悪事を働く僕も、悩む僕も、怒る僕も
笑う僕も、泣く僕も、立身出世したいと夢見る僕も、社会に貢献したいと
思う僕も、弱者を助けてあげたいと思う僕も、諦める僕も、遊ぶ僕も
自殺し様とする僕も、生き様とする僕も・・・・・
僕は、言葉に造られた存在だ、そう国語辞典、宗教の教え
道徳様々な科学分野の言葉・・・これ等、言葉の集大成が
僕なのである・・・・僕以外の存在も、例外ではない、君達も
言葉の材料によって、建築された言語技術の集大成、芸術品だ・・・
言葉の・・・イエスはこれを言ったのだと僕は今では感じる・・・
つまり言葉によって、善も、悪も、生まれる言葉は
核兵器をも生み出し、戦争と言う手段や思想、戦略、攻略
殺傷武器を編出した・・・・と供にこの言葉という技術は
禍福糾える縄の如しに神と悪魔を生み、社会を生み、国を生み
人間の生活を便利にし、生活必需品をも生み出した・・・・
矛盾・・・そう矛盾は摂理なのである諸刃の剣なのである
言葉には本来、矛盾を孕んでいるものなのだ!
是を現代科学的に呼ぶならば、自然の掟には全ての要素に
(プラスと、マイナス、の効果)が公理である言葉も同様に・・・
僕達を創った言葉には矛盾を孕んでいる、そして僕たちは
存在そのものが矛盾であるので、あまりこの様な事に心労し
徒労し矛盾であると悩み、拘り考え過ぎない様に留意し
清だけを求めて審美になったりして、他人や自分の過失を悪戯に
憎み増悪し偏狭の堅物になったり、逆に濁だけを求めて
悪魔主義になったりして、他人や自分の過失に寛大になりすぎて
放蕩、無頼の我儘な独善になったりしない様に心がけたいものである
そもそも人間(自然)は清濁、矛盾を、内外に保有し
その平均のバランスを保とうとするのがさだめなのだろう。
自然から生まれた人類が、公理のマイナスの部分だけを排除したり
プラスの部分だけを会得しようとするならば
大自然を冒涜した、大で、驕った分際のない神の名を騙る
哀れなる愚かなる存在と化すだろう・・・道化だ・・・
どうして僕達を創造した産みの親の自然に勝てるだろうか?
なん百億光年も生きている宇宙の自然の親に・・・
かわいそうな、あわれむべき馬鹿者と映ることだろう・・・
上述した様に一方では、人類はおろか地球、宇宙を、殺戮
破壊、壊滅させしめ、もう一方では未来や、宇宙へ羽ばたき夢みる
ロケットを生んだ・・・
そしてイエスは、この始めに言葉ありしと言う言葉意味を
戒めとしてこう言う事を語ったのではないのか?と僕は直感する・・・
僕達が時には自暴自棄に陥り、自殺願望を懐いたり、無性に殺意を
懐いたり、逆には夢を懐き平和を祈り、ボランティアを奉仕を
したくなる様に・・・・
この知見から壟断すると見えてくるのは言葉、メディアは王様であり
法律である・・・僕達は裸の王様にすぎない・・・
僕達は言葉という、ものに縛られ、縛られるが、逆に言葉の技術
秩序によって生かされ、生きれ、平和、自由を、平等を、人生を夢み
楽しみを享受できる・・・・
メディア媒体の責任、仕事は言語を有す全民族の王なので超然として
偽りを語ってはならない、その所以は既に述べた所の理由からでも
明らかであり、即ち王である言葉が偽りであったり、誤っておれば
その言葉という言語に群盲し疑うことを知らない、詰まり会話という
言葉を絶対視して、言葉を日常に普通に、無意識に使用する
良民は、民族はそれを額面とうりに受け止め、言葉と言う
メディアの誤り、に追従し意図的に作為された偽りに翻弄され
その民族も誤りを、誤りと思わず偽りを偽りと思わず、嚆矢の
言葉に連綿と誤り続け、膨大な虚言、妄動に導かれ路頭に迷い
迷宮で苦しむ事となる。
王が眩めば、その民も眩み、真実が歪曲され、真実が真実でなくなり
言葉の深遠なる同道廻りのループに陥り、真実を喪失した彷徨う
餓鬼道の民となる。
この世はイエスが言った様に、言葉が始まりであるのでその
最初の嚆矢が、間違っていれば偽っていれば、その後は誤りの
無限連続になり災厄、不幸を招く。
メディア、媒体、言葉、即ちこのメディアこそが一番偉い王様であり
メディアこそが司法であり、立法、行政であり、メディアこそ
私達自身、国民、民族であるり、また個々人と言える。
既往、既存の、言葉や、規則、法律、憲法は過去に、私達を助ける為に
存在し、私達が過去のそれを模倣する事によって
現在の私達が存在し、模倣した過去の教えを未来に繋げる為に
敢えて過去の覚えた副産物を棄て、新たに生きている
今一瞬の、私達が発するその言葉にこそ
真実の王が宿っている・・・・
過去の言葉が偉い王様であったのは、あくまでも過去の事象であって
現世に存在し今を、生きているこの瞬間の私達こそが
真実の言葉、王の言葉を代弁でき得る資格を有す王の代理者である。
メディアとは、媒体とは、言葉とは、因習に沽券し拘っては
停滞するものである、恰も水溜まりに溜まる、水が時とともに
腐り、蒸発し、消える様に、言葉も、法律も、規則も、同様に
そのままにして固執し、崇高にあがめているだけでは
腐敗し混沌の災いを招き、牽いては人民を路頭に迷わせ苦しめる
結果となる、然るに王であるメディアはあるがままの流れを
ありのままに認識し、流れつつその渦中にこそ因習に因循した
言葉ではなく、この瞬間の刹那の言葉を語り伝えねばならない
水の流れの如く清らかに、澄明に、ありのままに・・・
でなければ過去の既往の、水溜まりの腐った奴隷と成り果て
成長を阻まれた傀儡の偽りの乱れた猖獗の
大廈の倒れる所一木の支えるにずになってしまう。
メディアと言う王は、過去の水を模倣し奉りあがめ
保守してはいけない、美味しい水既得権に執心してはならない
常に新鮮な水で流れ、浄化しつつ新しく成長せねばいけない
メディアは言葉は、王様は腐った水溜りの中で酔い溺れてはならない。
僕がここでいわんとする事は国や、法律が偉い、王様ではなく
私達自身が、発する言葉その瞬間のそのものが王なのだという事に
言及する、いずくんぞと問われれば、イエスが始めに言葉ありし・・・
即ち今の言葉、今この瞬間のメディア媒体そのものが新鮮で新しい