朝霧の中で・・・
「ノブ、後悔しない様に頑張ってね。私、ノブの共通一次の結果が出るまで会わないし、電話もしないから」
恵子が珍しく真剣な顔で言った。
「いいけど、まだ3週間あるよ?」
「恵子、大丈夫?」
「ばか。大丈夫なんかじゃないよ・・寂しいよ。でもさ、最期の追い込みってあるでしょ?」
「その邪魔したら、私、ノブの彼女の資格、無くしちゃうもん」
恵子をギュっと抱きしめて、ボクも言った。
「分かった、ゴメンね、いじわる言って」
「オレも頑張らなきゃね。もうひと踏ん張り!」
終わったら二人で山、行こうね!と囁いて、ボクらは眠った。
年が明けた、いや、明けてしまった。
正月は、それこそ、アっと言う間に終わり、いよいよ明日は共通一次の日だった。
「明日ね、頑張ってね、ノブ!」
我慢できずに電話してしまったボクだったが、恵子は分かっていたのだろう・・呼び出し音が鳴りだしてすぐに電話に出てくれた。
待っててくれたんだ、ボクの電話を。
「ま、出来るだけ、やるだけやってみるよ。力試しの積もりでさ」
「うん、その位の気持ちの方がいいかもね。大丈夫よ、ノブなら」
久しぶりに聞く恵子の声、やっぱり最高だった。
「ご家族の皆さんも、私も、み〜んなノブの頑張りを知ってるんだから、ノブも自分の力を信じて・・・ね?!」
電話を切った後も恵子の声が聞こえる様な気がして、勇気付けられた。
共通一次試験当日は、東京には珍しいドカ雪だった。
家を出たが、新小岩までのバスが、一向に来ない。幹線道路なのに、雪の上にはタイヤの轍もまばらだった。
「ヤバいな、バス来ないじゃん・・」
その時、一台の車がバス停の前に止まった。
「おい、遅れるから乗っていけ!」
有難い!親父、土曜日の午前中は診察があるはずなのに、わざわざ来てくれた。
「いいけど、大丈夫なの?診察は?」
「そんなもん、こんな雪の日に来る患者が悪いんだ!とっとと乗れ!遅れるぞ?!」
親父はボクが出て行った後、外の天気を見て、もしや・・と思ってタイヤにチャーンを着けて来てくれたのだった。
おかげで、新小岩にはすぐ着いた。
「有難う、父さん・・助かったよ」
「ほれ、早く行け!全力出し切れよ?!」
「うん、頑張ってくる!」
駅前のロータリーで車を下りて、総武線に乗った。
試験会場は水道橋の専修大学だった。
一日目が終わった。
会場を出た時、雪がまだパラパラと舞っていた。
「疲れたな・・・」
ボクは精魂使い果たし、帰り道、危うく駅を乗り過ごすとこだった。
その夜は二日目の科目の復習をする積りであったのだが、すぐに熟睡してしまった。
二日目の朝も曇っていたが、幸い雪は上がっていたから会場までの道は順調だった。
そして終わった、二日目も。
会場の出口で駿台の職員から模範解答の速報を手渡され、家に帰って早速、自己採点をした。
結果、8割5分!
やった!、これで多分、足切りはされずに済む・・と思ったら猛烈に恵子に会いたくなった。
会いたい・・・とボクは言った。
恵子は、8割超えの出来を喜んでくれたが「うん、会おうね!」とは言ってくれなかった。
「ノブ、次は十日後にJ大なんでしょ?」
「私と会ってる暇なんて無いはずだよ、今は」
分かってる・・・けどさ。
「ね、もう少しだから、頑張って?ノブ!」
恵子は、ボクのJ大の受験が終わるまで会う積もりは無いと言った。
確かに、この時期に彼女と会ってる受験生なんて日本中探しても少ないだろう・・けどさ。
「分かって、ノブ。私だって会いたいよ、抱きしめてほしいよ、今すぐにでも」
「でも、ダメ。ここで会ったら・・・絶対に後悔するよ、私たち」
「うん、分かった。J大の一次試験が1月の終わりで、受かったら二次試験は2月の前半だから、それまでは我慢するよ・・」と電話を切った。
やっぱり、恵子はしっかりしてるんだな、浮かれてたボクは反省した。
ボクは恵子との電話を切った後、それまでにも増して集中した日々を過ごした。
そのお陰で、J大の一次は、何とか無事に合格した。
恵子に報告したら「キャ〜〜!やったね、ノブ!凄いよ、たった半年の勉強で合格するなんて・・・ノブって、やっぱり頭いいのね!」と手放しで喜んでくれた。
嬉しかった。
「もう少しだよ、ノブ!二週間後の二次試験も合格したら、国立までの間に、一度だけ茶蕃館でコーヒー飲もうね!」
「え〜?部屋じゃないの?」
「それは・・・国立が終わるまでお預けよ、キャ!」
久々に聞く恵子の明るい声だった。凄いな、女の人って。
男と違うんだね、全く。
でも恵子の声の力は絶大だった。
ボクは、二週間後に行われたJ大の面接と小論文の二次試験に、何と合格してしまったのだ!
久しぶりの茶蕃館、久しぶりの恵子の笑顔。
最高の時間だった。
「良かったね、ノブ。おめでとう!頑張ったもんね、この半年」
「有難う、でも実感湧かないんだよね、まだ残ってるじゃん?国立がさ」
「そうかもね。やっぱり、国立受かったら、その方が親孝行だもんね」
「いや、親孝行はいいんだけど、難しいからね、私立とは段違いに!」
そうね・・恵子はコーヒーカップを持ち上げた。
今日のコーヒーは、マンデリンだった。
「このコーヒー、恵子に教えて貰ったんだよね、マンデリン」
「うん、そう。嬉しかったもん、あの時。ノブも美味しいって言ってくれて」
あの頃は、ここではアイスコーヒーばっかりだったねと二人で笑った。
そして暑かったね・・と。
ここは二人の思い出の場所になっていたんだ、既に。
「ノブ、私ね、明日からちょっと実家に帰ってくるから」
「え、何で?」
「向こうでね、叔父がオルゴールの工房を開いたの、念願叶って」
「そのオープンのお祝の会に、お手伝い頼まれちゃってさ」
いいな、オルゴールの職人さんか。
「でね、ちゃんとお手伝いしたら、何でも私の欲しいオルゴールを記念に作ってくれるって言うから」
「へ〜、いいね、それ。最高の記念品じゃん?手作りのオルゴールなんてさ!」
恵子は「でしょ?」と微笑んだ。
「何の曲にするの?」
「えへへ・・秘密!」
恵子は笑って教えてくれなかった。でも「二人の記念になるものだから・・楽しみにしててね?」とだけ言った。
そして、ボクらは笑って別れた。
・・・終章・・・
「・・・恵子、大丈夫?」
「「大丈夫よ、ノブは?」」
「うん、オレは大丈夫・・・少し寒いけどね・・」
「「私は、あたたかいよ」」
「そうかもね・・」
ボクらは、二人で、明けきらぬ中を乾徳山に登っていた。
春はまだ浅く、残雪の中をチヨダの冬靴に8本爪のアイゼンを装着しての山行だった。
ピッケルを刺す雪の感触、アイゼンをけり込んだ時の、飛び散る雪片。
もうすぐ鎖場のはずだ。軍手はやめて冬用の手袋にして正解だったね・・と恵子に言った。
「「ノブ、気をつけてね?」」
「大丈夫、ワンゲルのお嬢さんと一緒のパーティーだからね!」
「「もう、ノブったら・・」」
鎖場に着いた。ここまでくれば、頂上まではもう一息だ。