朝霧の中で・・・
でも、僻んで図書館に籠った次男坊が本の魅力に魅せられたことは事実だったし、歴史が好きになったことも本当だった。
だから余計に悩んでいたんだろうな、自分はどっちに進むべきなのかを。
黙って聞いてた親父が、口を開いた。
ボクの目をしっかりと見据えて。
「分かったよ、お前の気持ちは」
「そんな風に僻んでたなんて、父さん考えもしなかった。お前、意外と傷付きやすかったんだな」
「よし、いいとしよう。お前の受験に、父さん賛成してやる。ただし・・」
「死に物狂いでやれ?!健一との勝負じゃなくて、お前の人生の問題なんだからな!」
有難かった、久しぶりに親父と本音で話しが出来たことに感謝してた。
「あら、でも、アンタ、捻挫してたんじゃないの?どっちの足?お父さんに診てもらいなさいよ!」
全く、久方ぶりに心を通わせた父と子の間に、このお袋さんは・・もう。
「捻挫?そんなもん、放っときゃ治るさ」
「そんな事より、これからの勉強の事、考えてるんだろ?どうするんだ、実際」
「さっき学校に行って先生には話したよ、驚いてたけど、頑張れって言ってくれた」
「そうか、頑張らなきゃな、本当に」
「学校の勉強だけじゃ足らんだろ、どうする積もりだ?」
「先生は、今月と来月、必死に勉強して、来月末の駿台の編入試験受けてみろって」
「それに引っ掛かれば、望みはあるってさ」
「駿台か・・結局、親子三人ともに世話になるんだな」
驚いた、親父も駿台に通った時期があったのか。初めて聞いたし。
「何言ってんだ、健一が通ってた時にも言ったぞ、父さん」
「とにかく駿台の理系午前部に入れたら、医学部は何とかなるって言われたもんだ」
ゴメン、全く聞いてなかった。
そうか・・駿台には、親父も兄貴も通ってたのか。
理系の午前部ね、先生と同じ事言ってる親父が少し可笑しかった。
駿河台、御茶ノ水・・これも、恵子とは別の赤い糸なんだろうか。
「とにかく、医学部に行くと決めたんなら、もう迷ってる時間なんて無いぞ」
「親が敷いたレールなんてものはありゃしないんだよ。自分の人生のレールはな、み〜んな自分で悩みながら苦労して敷いていくもんなんだ、父さんだって同じだったからな」
「え、そうなの?父さんも悩んだりしたことあるの?」
「当たり前だろ、バカモノ。悩んだ事がない人間なんて父さん会ったことも見たことも無いぞ?!」
そうだよな、親である前に一人の人間なんだから、親父も。
きっと若い頃は、今のボクみたいに色々悩んだりしてたんだろうな。
「ま、母さんは悩みとかには無縁に見えるけどな、ハハハ!」
親父がうまいこと、話しを終えてくれた。
「さて、午後までひと眠りするか」
「伸幸、お前のやることやりたいことには父さん口出しする積もりは無いけどな、やっぱり嬉しいよ、同じ仕事を選んでくれて」
居間を出ていく時の親父の一言はエールだと思った、迷ってフラフラしてた次男坊のボクへの。
恵子に電話しなきゃ・・夜が待ち遠しかった。
二階の廊下に電話があったから、ボクは時計とにらめっこしながら7時を待った。
7時になった。
受話器を上げて、恵子の部屋の番号を回した。
ジ〜コロコロ、ジ〜コロコロコロ・・・
2、3回呼び出した時、恵子が出た。
「もしもし、近藤ですが・・・ノブ?ノブでしょ?」
「う、うん。早かったね、電話に出るの」
「だって、さっきからずっと電話の前に座って待ってたんだもん。足痛いのに」
「そうだよね、どう?まだ腫れてる?」
「もう、そんなことどうでもいいでしょ!どうなったの、先生との相談は・・」
ボクは、今日一日の事をかいつまんで恵子に話した。
「良かったね、ノブ。お父さんと仲直りも出来たし、先生も協力して下さるって仰ってくれて」
「うん、でも・・何か外堀埋められた気分だよ。もう、ボクは頑張るしかないんだよね。言い訳は許されない、みたいなね」
「違うよ、ノブ。みんな追いつめてるんじゃなくて応援してるんだよ、頑張れって」
「だって、ノブの問題なんだもん、勝ち負けとか誰のためとかじゃないでしょ?」
確かに、恵子の言う通りだ。
誰のためでもない、自分の一生のための努力であり闘いなんだな。
「駿台か・・・」
「え、恵子、知ってるの?」
「当たり前じゃない、お茶の水だよ?私の会社は」
「駿台はね、うちの会社から一本大きな道路を渡って、ニコライ堂の向こう側にあるの」
「学生さん、多いよ、あの辺は。駿台みたいな予備校も多いし、明治でしょ、日大でしょ・・大学もあるからね」
そうなんだ、やっぱり学生街なんだ。
「あのね・・ノブ?聞いてる?」
「うん、聞いてるよ。何?」
「ノブは駿台に行ったことあるの?」
「ないよ」
「そうか・・じゃ、一回位は来た方がいいよね、ノブも」
「あはは、先に言われちゃったか。恵子さ、考えてたんだけどね、明日パンフレット貰いに駿台に行こうと思ってるんだよ」
「お昼休みとか、あるの?」
「嬉しい!もしもノブが来るんならって思ったから、私・・」
「12時半から1時半までの一時間は、お休みだから外に出られるよ!」
「オッケー!じゃ、待ち合わせしよう。どこにする?」
「じゃ・・ね、お茶の水駅の聖橋出口を出てね、前の道を右にちょっと歩くと、右手にサバンカンって喫茶店があるから、そこで待ってて」
「地下一階から二階まで、全部、喫茶店だから、すぐに分かると思うわ」
「分かった。サバンカンね。で、どこ?地下?一階?二階?」
「うん、地下にしようか。いつも地下の方が空いてるから」
了解です。でも・・・もどかしいもんだね、電話って。
一昨日から今日の朝まで、ずっと一緒にいた恵子の声が、受話器越しに聞こえる。
恵子も同じだったらしい。
「電話って、声聞けて嬉しいのに、寂しいね」
「あは・・・同じこと考えてたんだ、恵子もボクも」
「ゴメンね、こんなコト言う積もりじゃなかったのに・・ノブが悪いんだよ?!」
「え、え?何で?」
「綺麗に後片付けなんかして帰るからさ・・思っちゃったよ、みんな夢だったのかな・・なんて」
むむ、後片付けしたのは間違いだったのか。
「いいの、ゴメンね、ノブ。せっかくしてくれたのに・・。文句じゃないんだからね」
「帰る時に思ってたの。きっと、ノブの事だから後片付けしてあるんだろうな・・って」
「でも、してなかったら、それもいいかなって。ノブが食べた朝ごはんのお皿、ノブが寝た布団がそのままだったら、確かにノブがいたんだって思えるでしょ?!」
ふむ、この辺が女心なのかな。修行が足りないね、ボクも。
「じゃ、長くなるから・・切るね。明日のお昼、サバンカンで待っててね、ノブ」
「うん、サバンカンに12時半には行ってるよ。じゃ明日ね」
カチャ・・っと受話器を置いた。
はぁ〜寂しいな・・・ほんとに。
何か、泣きそうになって膝を抱えて廊下に座り込んでたら、下からお袋がでっかい声で呼んだ。
「ほら、何やってんの?!ご飯食べちゃいなさいよ〜!!」
感傷にも余韻にも浸れない、親と同居の高校生の現実だった。
とは言え、この夜からボクは変わった。