朝霧の中で・・・
そうだったんだ、恵子が言った「羨ましい・・」の言葉がボクを黙らせてしまった。
ボクの甘っちょろい悩みなんて、行きたい大学に行けなかった恵子の悲しさに比べたら・・。
行きたい方向に悩むなんて、それ以前の行けるか行けないかの悩みに比べたら確かに贅沢な悩みでしかない。
正直、自分は結構、不幸なんじゃないか?なんて思ってた自分が恥ずかしかった。
「ゴメンね、ボクの悩みなんて悩みじゃないよね」
「ううん、違うの。そんな積もりで言ったんじゃないの」
「家庭の事情は家によって違ってて当たり前だし、たまたま私はそうだったってだけの事なのよ」
「ノブの悩みが贅沢だなんて思わないよ?!行きたい方向に行けないかもしれないって辛さは、私も分かるんだから」
「だから、そんなに落ち込まないで、ノブ」
「文学部でも医学部でも、どっちでも行ける環境が羨ましいなって思っただけ」
ごめんなさい、余計なこと言っちゃった・・と今度は恵子が肩を落としてしまった。
優しいんだな、恵子は。
「恵子は何にも悪いことしてないんだから、気にしないで?」
ボクは恵子を抱きしめて言った。
「大丈夫、ボクの悩みは、ボクが決めなきゃいけないことだから」
ま、実の所、そんなに悩んでた訳じゃないんだけど、高校三年生の夏と言えば容赦なく近づいてる受験を意識せずに過ごすことはもう出来ない。
だから、進路を絞らなきゃいけない時期に来ててフラフラしてるボクが悪いんだ。
「今回の山、本当は最後の積もりだったんだよ、受験が終わるまで」
「じゃ、私、悪いことしちゃったんじゃない?」
「ううん、ちがう、それとコレとは。ボクは恵子と知り合えた事が最高にうれしいし、実際に登らないって決めたのはボクだから」
「恵子と仲良しになりたかったばっかりにね!」
本当にその通りだった。
二人で汗かいて、苦労して下山して。登らなかった後悔なんてこれっぽっちも無かったし、下山してからは嬉しくも驚く事の連続で大げさだけど生きてて良かった〜!って叫びたい位なんだからね。
恵子もそんなボクの本心は分かってくれたみたいだった。
「それならいいけど・・」
「ね、ノブは本当はどうしたいの?」
「え、進路?」
「そう。お医者さん?小説家?」
実は、結論は出かかっていたのかもしれない。
きっかけは夏休みに入ってすぐの、兄からの電話だった。
「お前さ、嫌ってるだけじゃなくて一度、普通の医者ってものがどんなものだか、見に来いよ」
「それからでも遅くはないだろ、決めるのは」
ボクと親父の不仲は、当然、兄の耳にも入ってたからね。
「クラブの先輩の教室に、一日見学に来い。話しといてやるから」
そこまで言われたら、行ってやってもいいか!
数日後、再び兄から電話があった。
「明後日の木曜日、オレんち来て泊まれ。そしたら金曜日の朝早く大学まで乗せて行ってやるから」
了解です、兄上さま。
兄の先輩は、耳鼻咽喉科の研修医だった。
金曜日一日、ボクはこの研修医と呼ばれる新米医師にくっ付いて回ることになった。
朝7時に大学に着いた。
とにかく、びっくりした。
朝は病棟で採血と点滴、続いて外来の手伝い、また病棟に戻って入院患者の診察と包帯交換。
昼は職員食堂で定食をかっ込んで、医局で一服休憩。
ウトウトする間も無く、午後は手術室に入って先輩医師の手術の手伝い。終わり次第、午後の専門外来の手伝い。
目の回るような時間の速さと密度の濃さに驚くと共に、平気な顔でそれらをこなしてる医師たちの姿にも驚いた。
ちょっとしたカルチャーショックだった。
夕方遅く教授が言った。「この学生を飯にでも連れてってやれ!」
その一言で、講師以下数名がボクを近所のすし屋に連れて行ってくれた。
「良かったじゃない、充実した一日で」
「うん、まあね」
「ノブのことだから、飲んで盛り上がったんじゃない?」
恵子が嬉しそうに笑いながら言った。
「いや、先輩に囲まれて・・だからね、大人しくしてたよ、ボクも」
大学病院の近所のすし屋の座敷で、生ビールで乾杯した。
勿論、一日の終わりのビールはうまかった!
「今日はラッキーだよ。君が見学に来てくれたお陰で、ボスの懐から軍資金が出たからな!」
先輩医師達が笑って、ボクの肩を叩いた。
「どうだった?耳鼻科も面白いだろ?」
「はぁ、でも皆さん凄いですね!毎日、あんな感じなんですか?」
「あ、今日は楽なほうだろ。オペも順調に済んだし救急も少なかったからな」
そうなんだ、これが大学病院の医者の日常なんだ。
でも、これで楽な方とは。
「あの・・」
「ん?何だ?」
「ほんとに忙しくなると、どうなるんですか?」
色々と話してくれた。
病棟に重症患者が大勢いると、受け持ち医師はまず帰れないこと。
仮に帰ったとしても、急変の場合はすぐに呼び出されるから、おちおち家で酒も飲めないこと。
特に癌患者を受け持ってる医師は常に患者の事が頭にあるから、休日も殆ど病院にいる。当然、家には帰らない。
当直医は一晩中、救急外来を訪れる患者の対応に追われて寝られない。寝られないけど、翌日の業務はいつも通りにこなさなければならないこと。
年末年始は特に忙しくて、昨年から今年の初めにかけて結局家でお正月を迎えた医局員は半数にも満たなかった、など等。
「よく皆さん、平気ですね」
「平気じゃないよ、慣れちゃっただけだな」
そんな事を言いながらも、研修医は上席の助手にオペの上達法を一生懸命に聞いてたり、講師と呼ばれるナンバー3は研修医や助手を嗜めたり指導したりしていた。
そんな医師達のやり取りには間違いなく誇りと責任感が溢れていた。
「そうなんだ、何だかノブの話し聞いてると、いいね、お医者さんも」
「うん、みんなカッコよかったな、仕事に打ち込んでて。言ってたもん、自分の知識や腕の上達が患者にとってプラスになるんだって」
だから、それ以来ボクの心は随分と医学部受験の方に目盛りが片寄っていたのだ。
でも、ここに大きな問題があった。
ボクはずっと文学部志望だったから、理系の医学部の受験科目はからっきし自信が無かったのだ。
自信があったのはせいぜい英語と生物位で、数学?科学?物理・・って何だ?って感じだった。
そこまで大人しく聞いていた恵子が言った。
「でももう、結論は出てるんだね、ノブの中で」
「え?だから迷ってるって・・」
「うそ、今すっごく楽しそうに話してたよ、お医者さんのこと。まるで、自分の自慢話してるみたいに!」
そうなのか、ボクは医者になりたい・・のか?!
「大丈夫よ、ノブ、勉強出来そうだもん。頑張ってごらんよ、医学部受験!」
「軽く言ってくれるな、恵子は」
でもそうなのかもしれない、実はもうボクの中では結論は出かかってるのかもしれない。
ただ、そうと決めてしまうとこれからの受験勉強が恐ろしいことになってしまうのだ。
だから無意識に迷ったふりして逃げてたのかも。
確かに、医者達はカッコ良かった!一生をかけて取り組むのに十分な、遣り甲斐みたいなものも感じたことは事実だった。
でも一抹の悔しさを拭いきれないでいたのもまた、事実だった。