はちみつ色の狼
「ああ・・・わかった、ありがとう。」
「でも、俺感動しましたよ!少尉が俺の名前を覚えておいて下さるなんて!たったの一回だけ飲み会で出会っただけなのに・・・。」
「・・あははは、まあ、気にするなって。」
掠れたような笑いからは、悪い予感が当たった事に対する自分への苛立ちが感じられた。
タバコはまた、その後にお預けだな。
とほほと言いながら、トロイに軽く挨拶をしてその場を後にした。
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目の前には、エレノア大佐がビロードの真っ赤な背もたれそして明らかに人目で高価とわかる椅子に腰掛けて切れ長の瞳でこちらを睨んでいた。
机の上には一本の赤いボールペンに散乱した書面、そこに片方の肘を乗せて邪魔そうな前髪は今日は後ろへと流された状態であった。
「・・・・・。」
「・・・・・。」
ジャンは、エレノアの目の前で敬礼をした後、今は背後で両手を組んで姿勢を正しただ立っていた。
エレノアの座る座席からおおよそ3m離れた場所。
いつも思うが、この部屋のカーペットは靴が沈み込むほど毛足が長い。
「こんな服装で、申し訳ないです。」
「いや、いいです。」
「・・・。」
簡単な挨拶が済んでしまうと、さて、自分から言うのもなんであるが、この場合自らは何も語ることはない。
犬の散歩だろうが、どぶ川さらいだろうが、なんだろうが、どの道その命は絶対なのである。
「・・シルバーマン少尉。」
「イエス、サー。」
室内にはエバ中佐に通されて、その間もエレノアは何も喋らずにジャンを睨みつけているだけであったが、最初の沈黙を破ったのは、エレノアであった。
エレノアは、赤く口紅によって縁取られたぷりっとした唇、極上でセクシーな笑顔でこちらを見ているがジャンの表情に笑顔はない。
もう、さっさと言いやがれ!!今回はなんの用事だ!
エレノアの背後に立つエバ中佐は、静かにジャンの様子を眺めている。
この兵舎のナンバー1と2である、二人の違った容貌の美人に囲まれて、ただの飲み屋でなら喜んで長時間でも居たい所で有るが、ここは執務室。
静か過ぎる室内とこの美人二人に、誰も彼もを緊張する。
だが、ジャンはと言うと別段、緊張はしていなかった。
いままでだって怒られる事と妙な命令を受けに何百回と来た、この場所には別段ジャンを緊張させる要素は何もない。
最近は怒られるような事もしでかしてはいないし、見つかって困るような隠し事もしていない。
演習でだって裏方であったが、しっかりと給料分は働いている筈である。
今日だって定期便は休みだとしても、報告書は時間通りに仕上げた。
あと一つ気がかりは、明日からの休み。
一ヶ月も前から有給を取って溜まった洗濯物をするつもりでいたが、この呼び出しは休みが返上されるような気がしてならない。
むっつりとした表情でジャンは、エレノアの口がもう一度開くのを待っている。
「さて、少尉。」
「サー。」
先ほどまでには片肘を突いていたが、一言言うとそのまま机の上にを一度眺めて微笑んで見せた。
「・・明日から休むらしいけれど、この休みは何をするつもりかしらね?シルバーマン少尉。」
いつの間に手に持ったのか、机に置かれていたボールペンの柄で見た目にも痛いくらいにバンバンと叩かれている同じく散乱していた書面の下敷きになっていたファイル。
そこには、挟まれた休暇届け。
やっぱり、それですか・・・。
3m離れているとはいえ、ファイルに挟まれた汚い字には見覚えがあった。
ジャンの休暇届けである。
一年のうち、有給休暇も使わなければ無くなって行くのだ。
去年は十回の有給休暇で消費できたのは半分にも満たない3日であった。
エレノアは押しが強い。
だが、ジャンにも洗濯なんかのしょうも無いことだとしても、休まなければ行けない理由はある。
でも、エレノアの命は絶対である。
ジャンは、姿勢を正したまま肩を落として俯いたまま表情を崩した。
「・・なにも、休ませないなんて一言も言ってないでしょう。」
「・・・・?」
ジャンのそんな様子を苦笑しながら眺めていた大佐は、「私はそこまで悪魔ではないつもりです」と呟いた。
その言葉にすぐさま顔を上げるジャン。
そこにあったのは、真剣な顔をしたエレノア。
「前置きはともかく、その明日からのやすみを移動しないかしら?」
「・・移動っすか?」
「今時分はテロリスト確保や、聴取で手が空いていない。」
「・・・。」
なるほど。
そりゃそうだ。
情報部を見ればわかるように、急な捕り物でみんなが浮き足だっている。
うちの隊には全く関係ないであろうが、人手がいるのは事実であろう。
「どうかしら?」
「・・・いいっすよ。」
俺だって、悪魔でもない。
みなの手伝いになるのであれば、喜んでお受けいたしましょう。
ただし・・・・、
「この仕事が落ち着いたらすぐに休みもらいますからね。いいでしょ?」
「少尉その言い方は・・・、エレノア大佐に対して失礼じゃないの?」
「いいじゃなの、エバ。そうね、少尉には最近頑張ってもらっていたものね。」
エバが堅物で有るのに対して、エレノアは結構話が通じる上司である。
「まあ、この仕事が片付いたらと言ってくれているのだから、いいじゃないの?」
「そうですね・・。」
何か、含みのある言葉。
エレノアは話の通じる上司であると同時に、かなりただでは起き上がる事がない上司でもあった。
ジャンは、その言葉に少しだけ疑問を感じながら少しだけ首を捻ってしまった。
多分そこには、「この仕事がいつ終わるかなんて、誰にもわからない」って言う含みがあるのをジャンは、まだ気が付かないでいた。
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「あ〜あぁ、やっぱり休みの件だったのかよ・・。」
ったく、人使いが粗いちゅうか・・・、なんちゅうか・・。
頭の上に片腕を乗せながら渋い顔で、ぶつくさ言う。
そのままの状態で廊下を歩いていくジャンの横を大きな箱を持った業者がすっと横を通っていったのが見えた。
ぶつぶつ言ってる男の事を、変な奴だとか思ってんだろうなぁ・・。
ジャンは、ボウとそう思いながら自販機の目の前に立っていた。
自販機の傍にある休憩室にも人影はなく、周辺にもサボりの人間はいないようだった。
大佐の言ったとおりに、みんな忙しいのかもしれない。
頭の上に乗せていた腕をぶらりと重力に従って下へと下ろしていく。
そして反対の手に持っていた封筒を口元にまで持ってきて、自販機をにらみつけた。
目の前の自販機には昨日の夜に思っていた通り、やはり新しいタバコが入荷されていた。
もしかしたら、さっきすれ違ったのがタバコの業者さんかもしれないな。
少しだけその業者らしき人物が去っていった方角へと視線をやるが、その人物の姿はもうすでに消えていた。
ジャンはゆっくりと視線を元へと戻す。