ラクガキ 1
「……っ!!……!!!」
抵抗もむなしく、彼は自らが出した符の中に取り込まれ、消えた。
最後に残った金の腕輪を付けた腕は、そっと侮蔑のサインを出して、符の中へ帰って行った。
「あちゃあ、かわいそうに。」
一時の静寂を破ったのはサブロウだった。仲間がやられたというのに彼は平然と小道にたたずんでいた。
「ずいぶんひとごとですね。」
「だぁって、しょうがないじゃん。おっさんが勝手にした事まで、おれ責任持てませぇん。」
女は顔をしかめ、親指と人差し指でそっと屋根に落ちた符を拾った。
「では、この方はどうされますか?」
「ご勝手にぃ。ヘマったおっさんに人質の価値なんてないからさぁ、破いちゃっていいよぉ。」
かちゃり、と、鉄のこすれる音がした。
祐綺のそばにいた彼女が、悪態の代わりに刀を鞘に収めた音だった。
「では、今日のところはお引き取り願えますね?」
「…しょうがないねぇ。」
サブロウはわざとらしく首をすくめ、降参の意思を示した。
「じゃ、少年、……またねぇ。」
そう言って笑みを浮かべた男の目を見て、祐綺は背筋が凍るような感覚に襲われた。
「さて、祐綺さん。」
どきりとした。
「なんで、名前…」
「貴方は第2種能力者ですから。」
「平たく言うと、君が能力者だってことはちゃんと知ってるから、
奴らに目付けられた以上は守ってあげるよ、ってこと。」
生徒会の女が大仰な説明を続けるまでもなく、刀使いが応えた。
「籐子!」
「いいじゃん、麻衣の説明は長いんだよ。」
祐綺は後ろを振り返った。
地面から突き出た刃はいつの間にか無くなっていたが、自転車は無残にも二つに千切れている。
「で、どう致しますか?」
「…俺は…」
ゆっくりと立ち上がる。
色々あって抜けた腰は、立ち上がれるまでに回復していた。
肩にぶら下がっていた鞄を、しっかりと担ぎ直す。
「大丈夫です!それじゃ!」
「あ、こら!」
祐綺は走り出していた。
水たまりに足を突っ込み、それでも走る。
後ろで彼女たちが何を叫んでいるかなど、気にしようとも思わなかった。
―――どうでもいい。
今の生活を続けられないかもしれないのに、
どうして今さら非日常なんかに足を踏み入れなきゃならないんだ?
俺は闘いたくなんかない。
逃げてやる。利用されるくらいなら、逃げてやる…!
正門では、少女たちが息を切らせて立っていた。
「き、帰宅部のくせに結構早い…」
「逃げられましたね。まったく、取って食うわけでもないのに…」
「麻衣の真面目腐った顔見てたら、誰でも逃げたしたくなるけどね。」
「籐子!」
「はいはい。それじゃそろそろ結界を解いてもらって、引き上げないと。」
籐子はスコープの標準を合わせ辺りを見回すと、負傷者の回収を始めた。
「麻衣、それじゃ順番に保健室に運ぶから、“清掃班”に連絡お願い。」
「…という事は、今日は死者はいないという事ですか?」
「一応見回ってからになるけど、多分そうだよ。
術の発生回数と、転がってる負傷者の数が一致する。」
想像していたよりも軽い被害に、麻衣はそっと溜息をついた。
「何より、ですね。…ところで、彼の説得には誰を行かせますか?」
「まあ、信太ちゃんが妥当なとこじゃない?」
「なるほど。では、先に手配しておきます。」
そうして、麻衣は懐から色の違う符を2枚出すと、
裏にペンで伝言を書き、空中に投げた。
それぞれは、それぞれの元へ飛んで行った。
祐綺は、昼下がりと夕暮れの隙間を駆け抜けていた。
なんなんだ。なんでそうやって俺にかまうんだ。
彼の目には今や、行き交う人々がすべて自分に語りかけようとしているように感じられていた。
ああもうほっといてくれ、俺はずっとこのままでいいんだ!!
ただ、あいつらと一緒に生きていけるなら、それでいいのに…
―――物心ついたときから、俺は自分の描いた絵と話すことが出来た。
他の人には聞こえない、というなら笑い話ですむのだが、
俺の場合は他人でも聞こえるし、動くところを見ることが出来たから、
おふくろにはしょっちゅう迷惑をかけた。
でも、子どもというものは案外簡単で、翌日になるとだいたい忘れてるものだ。
そんなわけで、「お絵かき禁止令」は結構早くから出されていた。
だからといって俺の嗜好がそうそう変わるはずもなく、
隠れてお絵かきをするようになっただけだった。
ジャックはそんな時に書いた絵だ。
小学校の図書館で「ジャックと豆の木」を読んで感動した俺は、
何としても彼と話したいと思い、ノートの隅に鉛筆で書いた。
本当のところ、俺は友達がほしくてそんな絵を描いたのかもしれない。
おかげでジャックは、俺の生涯の相棒となった。
だから、幼馴染の佐々木よりももっと早い頃から付き合っている友達という事になる。
どんな悩みだって一番最初に相談した、親友―――
赤信号につかまり、祐綺はまた胸ポケットにそっとふれた。
そっと、くぐもった声が聞こえた。
「大丈夫か?祐綺」
「うん。かすり傷だから、帰って自分で手当てできる。」
「そうか。…なあ、どうして逃げたりしたんだ?
あれであきらめてくれるとは思えないし、明日も学校、行くんだろ?」
「…行かない。…もう諦めたよ。」
「本気か?」
祐綺の頬から、ぎりりと歯ぎしりが聞こえた。
「もう、いいんだ。」
そして、青に変わった信号を見上げ、走り出した。
彼を案じる少年は、ポケットの中で誰にも聞こえないため息を漏らした。
◆ ◇ ◆ ◇
気づけば、祐綺はおよそ3kmの道のりを走り切っていた。
「…はぁっ、はあ……」
ゆっくりと息を整え、無愛想なコンクリートの階段を昇る。
ただ、静かだった。
底の見えない細いどぶ川のほとりにそびえる祐綺の自宅は、
マンションというには余りに小さく、アパートというには余りにも大きい。
4階建てという大きさでエレベーターを欲しがるのは少々器が小さいような気がしないでもないが、
こんな日くらいは階段を昇らないで帰ってみたいものだと、祐綺は小さく笑った。
3階まで昇ると、今度は廊下の端まで歩く。
突きあたりの角部屋が、彼の安住の地だった。
「…ただいま。」
扉を開けた先は、深い深い闇だった。
「はじめまして…と、言うべきなのかな。」
「なっ?」
そこにいたのは男だった。
白い揺り椅子に腰かけ、かすかにバランスを取りながら彼を待ちかまえていた。
どこか見たことのあるような顔だが、祐綺にはすぐに思い出す事は出来ない。
「安心して。話が終わったら、すぐにお家に返してあげるよ」
「ここ…うちなのか? あんた、誰だ?」
祐綺はあたりを見回した。どこまでも真っ暗な空間が広がっている。
地面は延々と続く粗い石畳で、何やら魔法陣のようなものが描かれている。
非日常に次ぐ非日常で、祐綺は頭が痛くなってきていた。
「僕は…こうしたら、分かるかな?」
そう言って、男は分厚い眼鏡をかけて猫背になり、
まっすぐだった髪の毛をくしゃりと曲げ、跳ねさせた。
「…信太……先生?」
「そうそう。分かってもらえて嬉しいよ。」