ラクガキ 1
信太は、世界史の時間の際とは顔つきも服装も雰囲気も違っていた。
「今日はね、さっきの件で来たんだ。
分かりやすく言うと、あの女の子たちの仲間。分かるでしょ?」
そういって数時間前まで教師だった男は、勢いをつけて椅子から立ち上がった。
「まったく、まさかいきなり帰っちゃうとは思わなかったよ。」
祐綺は押し黙っていた。どこまでも続くかに見えるこの空間の出口など、見当もつかない。
信太はそんな彼の表情を読もうとするかのように、祐綺の前に立ちはだかった。
「別にね、彼女たちみたいに戦えって言ってるわけじゃないんだよ?
保護するだけで、今までどおりの生活は約束するし」
「嘘つけぇッ!!!」
男の差し伸べた手は、害虫のごとく払いのけられた。
「そうやってみんなみんな、理由をつけて俺たちを引き離そうとするんだ…。
いい加減にもうほっといてくれ!!
俺は絶対逃げてやる、逃げてやるからな!!」
そう言って祐綺は駆け出したが、数歩も走らないうちに石畳の隙間に足を引っ掛け、転んだ。
口の中にジワリと血がにじみ、立ち上がろうとしたが、出来なかった。
いつの間にか服の端がことごとく石畳の間に挟まれている。
裾も、襟も、ボタンでさえも、引っ掛かった状態で静止していた。
「庄司君。君の気持ちはよくわかった。
…確かに君の言う事にも一理ある。
我々による保護があるとはいえ、向こうに目をつけられた以上は今までと同じ生活は戻り得ない。」
祐綺は脱出を試みて乱暴に体を起こしたが、無意味だった。
むしろ締まっていくかに思えるこの状況で、祐綺は信太の丁寧な口調に少しずつ恐怖を覚えた。
「だから、我々がいるんだよ。
ガーディアンは卑劣な手段で注目を浴びようとするすべての者を断罪するためにある。
そして、君の願いは我々の理念と矛盾しないところにある。わかるかい?」
「……」
押し黙る少年の顔つきを窺い、信太はさらに続ける。
「庄司君。君は君の能力によって、周囲からあらぬ疑いを受けてきたかもしれない。
仲間外れにされたりしたこともあったろう。
だが、ならば何故、逆に注目を浴びることがなかったのだと思うね?
何故君は今まで平和に暮らしてこれたのだと思う?」
「偶然…です」
「違う。それはすべて我々の任務が成功したからだ。」
断言されたことに祐綺は戸惑い、二の句をつぐ事が出来なかった。
「先ほども言ったが、我々ガーディアンは卑劣な手段で注目を浴びようとするすべての者を断罪する。
そして、この国に住まうすべての人々が能力を秘めていることを忘れさせることで、
この平和を維持するために戦っているんだ。」
ぐいと、襟首を掴まれ、祐綺は自分の体が自由になったのを感じた。
しかしそれにすぐさま対応できるほどの度胸を持ち合わせてはいなかった。
信太はなおも続ける。その眼はほんの少し充血していた。
「わかるか?人は力を持つから強さを求めるんだ。
人間の進化と歴史を知れば知るほど、それは如実に目の前に現れる。
そこにあるのはむなしいばかりの事実で、そこから予想しうる人間の未来は余りにもむごい!!!
だが、人はね、知らなければ幸せでいられる。そういう生き物なんだよ。」
教師はもはや、少年の目よりもさらに奥を見つめていた。
「…じゃあ、俺も忘れなきゃいけないんですか?俺の、その、能力の事…」
信太はようやく祐綺から手を放し、その肩に優しく手を置いた。
「心配はいらない。
我々の技術では、ここまで濃密に接触した人間の記憶を掃除することはできないからね。
むしろ、君は保護されることで様々な利点を得る事が出来るはずだ。」
「例えば?」
「保護対象としてまず、心身の安全を保証する。
有事であっても君を戦力として数えたりはしないから安心してくれ。
それに、君の能力を詳しく解析することも出来る。」
「解析…」
「ああ。もしかすると不安を与えてしまうかもしれないが…
君はこう考えた事はないかい?
自分の描いた動く絵は果たして、自我を持っているのかどうか、と。」
祐綺は一瞬、教師が何を言い出したのかわからなかった。
―――自分が描いた生き物はひとり残らず名前をつけている。
暇さえあればそれぞれに食事を与え、どこにでも連れて行き、何気ない会話をする。
他人どころか、家族にさえも理解してもらえなかった、かけがえのない友情。
それが、幻かもしれない?
「まあ、今日のところはこれくらいにしておこうか」
信太は神経を研ぎ澄まし、闇に閉ざされた空間を開く。
そうして祐綺のアパートの部屋の前に、2人は佇んでいた。
はるか上空から屋根の上へ、責めるように絶えまなく雨粒の調べが響く。
どうやら知らぬ間に雨が再び降りだしていたようだ。
「邪魔したね。それじゃ、庄司君。
……また明日。」
そう言って教師は階段を下りて行った。
祐綺は彼を見送ることもなく、ただ、冷たい床に座り込んでいた。
忘れかけていた切り傷から、うっすらと赤い涙が滲んだ。