気流によって桶屋が儲かるための共同研究
森から人が遠ざかる
「もー、ミツキたん遅いゾ☆」
バイトが終わり裏口から外に出ると、気色の悪い声に出迎えられた。
「…君は私に『裏で待ってろ』と言わなかったか?なんで君のほうが先に居るんだ」
「相変わらず細けぇなー。いいだろ?待ち合わせにどっちが先に着いてようと」
いわゆる「ヤンキー座り」と呼ばれる体勢から、彼はゆらりと立ち上がって伸びをした。
「約束をした覚えはないが」
「でもお前、行くつもりだったろ?」
「何故言い切れるんだ」
彼は私の足元を指した。遅れて目で追う。
「昼間会ったときは革靴だったのに、家に帰ってわざわざスニーカーに履き変えたろ?森の中は革靴じゃ歩けないからだ」
私が黙り込むのを見て、彼はポケットに手を突っ込んでにんまりと笑った。
「…本当にくだらんことにしか頭を使わないな、君は」
「さ、行くぞ」
彼はくるりと背を向けて、目的地へとさっさと歩きだした。
追い掛けようとした背中に、どう、と風が吹いた。昼からの強風は未だ収まっていないらしい。
森へと続く片側一車線の道路を歩く。
奴は私より背が高い。従って歩幅も大きいのだが、こちらを振り返りもせずに大股で歩いていく。私は早足でその後ろを追った。
街灯が明々と照らす通りには、私たちの他に人がいない。ここまで来る途中にもすれ違ったのはたった数人だった。
「妙に人通りが少ないな。この道は駅への近道で、夜更けであっても人通りが多いはずなのに」
「噂のせいかもな。薄気味悪い声がするトコにわざわざ行くような奴は、心臓に毛が生えてるかよっぽどのアホ…」
「ああ全くだな」
もはや今日何度目か分からないため息をつく。何の因果でこんな、阿呆な若者代表のような真似をしなくてはいけないのか。
いや…何の因果かと言われたら、こいつと出会ったのが全ての元凶だ。
「見えてきたな」
黒いシルエットがゆっくりと近づいてくる。小さな森はそれ自体が生き物であるかのように蠢いていた。
あとは細い道路を一本越えれば森、というところで彼は足を止めた。
「ミツキ、聞こえるか?」
「いや…」
耳を澄ましてみる。風が吹くたびに、梢が揺れる音がうねりと共に届く。が、それらしい声は聞こえない。
「微妙なラインだなー。泣き声に聞こえるっちゃ聞こえるし、ただの風の音っちゃ風の音だし」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花、と言ったところか」
「はぁ?なんだよそれ」
「一言で言えば気のせい、ということだ。恐怖心に憑かれた人間には、なんだって幽霊の仕業に見える」
「それだけで噂になんかなるか?釈然としねーなー」
確かにその通りだった。単なる気のせいであるなら、昔からそういう話があってもおかしくはない。だが噂になり始めたのは最近のことだ。
その矛盾には気付いていたが敢えて口には出さなかった。早く帰りたかったからだ。
「これで満足だろう、タイチ。さっさと帰…」
「とりあえず入ってみよーぜ」
彼は私の返事も聞かず細い道路を越え、森の中へと踏み行っていった。
「ま、待て!タイチ!」
慌てて後を追う。星明かりの遮られた森の中は予想以上に暗く、背中を見失いそうになる。
「待てと言ってるだろう!」
ようやく追い付いた時には、森の深くまで入り込んでしまっていた。
「どーしたよ」
森の音はまるで豪雨のように二人を取り囲んだ。相手の声がよく聞こえない。自然と声は大きくなる。
「森の中に入ってまで調べる必要があるのか?」
「なんだよ、お前だって森に入るつもりで来たんじゃねーのか?」
「それはそう…だが…」
私が言い淀むと、彼はニヤニヤ笑いを口の端に浮かべた。
「まさか、怖くなったのか?」
「ああ怖いな」
「おっ、オカルト肯定派につく気になったか?」
「この時間に、民家も交番も近くにない森の中だぞ。浮浪者や変質者がいるかも分からん。生身の人間の方が余程怖い」
「なんだ、そっちかよ」
期待していた答えではなかったらしい。彼はつまらなそうな顔をしたまま、胸を張って言い放った。
「オレがいるから大丈夫だ」
「よもや、『オレが守ってやる』等という薄ら寒い台詞を言うつもりではないだろうな」
「ダメか?」
「ダメだ」
「即答かよ!」
「君の喧嘩の弱さは折り紙付きだろう。今でも君にだけは勝てる自信がある」
彼はポケットから電気シェーバーのような物体を取り出した。
「何だ、それは」
「スタンガン」
答えると同時に、チリリという音がして物体の先端から青白い火花が散った。
「何故そんなものを持っている!」
「何故…って、買ったから。これがあれば安心だろ?」
「分かった、分かったからそれをしまえ!こちらへ向けるな!」
「はいはい…ミツキたんは意外と怖がり…ん」
「その呼称は止めろ。極めて不愉快だ…どうした?」
「しっ」
急にタイチの顔色が変わり、唇に指を当てた。
反射的に口をつぐみ、私も異変に気付く。私達は顔を見合わせた。
渦巻く木擦れの音の中。
泣き声が確かに聞こえた。
作品名:気流によって桶屋が儲かるための共同研究 作家名:泡沫 煙