気流によって桶屋が儲かるための共同研究
人が消える
男とも女とも…さらに言うなら人とも獣ともつかない鳴き声が、森の奥の方から風に乗って流れてくる。
その声の響く中で我々は、
「いーやーだー!絶っ対に嫌だ!どーせお前が逃げ帰りたいだけだろ!!」
「だから違うとさっきから何度も説明しているだろう…冷静に考えて、ここは一旦引き返す方が得策なんだ」
見事にもめていた。
「いいか…もう五回は説明したが、もう一度だけ説明してやろう。だから途中で口を挟むな」
「あーわかったよ聞いてやろーじゃん」
うんざりした気持ちを隠すことなくそういうと、彼は腕を組んで私に相対した。
「まず、すでに現在時刻は22時近い。そしてここは森の中、しかもただの森ではなく、ホラーじみた噂が流れているような森である。と、ここまではいいな?」
「ああ」
「そんな森の中で聞こえる鳴き声。これが生物の出す音であろうとオカルト的な何かの出す音であろうと、異常な状況だということにも異論はないな」
「ないぞ」
「そして、オカルト否定派の私がこの状況に対し現実的な視点で考察をするのも当然のことだな」
「悔しいけどな」
「君の主観は聞いていない。さて、それでは現実的に考えてみよう。その場合、この音の元は霊などではなく生物だ。人間かどうかはともかくな。そしてこのような声で鳴くそれは、人間だろうと獣だろうと間違いなく普通の状態ではないだろう。警察に事情を話して協力を仰ごうとするのは正しい判断のはずだ。…あぁ、一応言っておくと、オカルト肯定目線での考察は私にとっては無意味なのでしていない」
六回目にしてやっと茶々が入らず説明ができたことにひとまず安堵していると
「先生!」
と、『生徒』が手を挙げた。
「先生ではないし、手を挙げる必要はない。なんだ?」
「電話で通報するんじゃ駄目なんですか!」
「タイチ、携帯は?」
「もち、充電切れてる☆」
「だろうな。私の携帯は君も知っての通り、電波の入りにくい某社のものだ。もちろんこの森でも」
言いながら取り出した携帯の画面には、見事に『圏外』の文字が表示されていた。
「…………なんで会社変えちゃったんだよ。この前まで電波入りやすい某社だったじゃんか」
「仕方がないだろう。新調されたマスコットの猫が可愛かったんだ」
「どこがだよ」
私の論に、タイチがストラップにもなっているその猫を弄びながら不満げにぼやく。
なぜかこの猫は、私の身の回り…というかこの男にはやたらと評判が悪いのである。
私としては、携帯会社を変える理由になるぐらいには可愛いと思っているのだが。
「なんでこんなやつに…こいつがいなきゃオレの…あっ」
なおもそれをにらんでいるタイチの手から、携帯を奪うようにして取り返すと、今は役に立たないそれを鞄の中にしまい込んだ。
「ともかく。私はそういう理由で、一度森をでることを推奨しているわけだ」
「…なんでオレだけ残っちゃいけねーわけ?わざわざ二人で行く必要ねーじゃん」
「一人より二人の方が信用されやすいだろう。それになにより、君を一人で残していったら勝手に奥に行ってしまうのは目に見えている」
「そんなことしねーよ!あ、じゃあわかった!オレがケーサツ行くからミツキたんは」
「同じことだろう。森を出たふりをして奥に入っていくに決まっている」
「オレどんだけ信用ねーんだよ!」
「信用があると思っていたか?」
「うっ」
最後の言葉はさすがに効いたのか、タイチはうめき声を上げると苦い表情になって押し黙った。
「そもそもだ。私は今までだって君の戯れ言のような『検証』につきあってきたが、ひとつとしてまともなオカルトだったことはなかったじゃないか。頻繁に目撃されていたというUFOは、いたずら目的のフリスビー。夜な夜な現れるおばあさんの霊は、その近所に住む少し痴呆が出始めたご老人。怪我人多発の神社の石段は、年月による劣化によって段の一部が極端に滑りやすくなっていたというだけだったじゃないか。君がオカルトに傾倒する原因となった女性の霊というやつだって、どうせ何かの見間違い…」
「…!」
「…あ」
はじかれたようにこちらを見た、その表情と目の色を見て、私は彼の逆鱗に触れてしまったことに気づいた。
「…あ…その…」
失敗した。苦い記憶がよみがえる。彼がこうなったときにどうなるかはよく知っていたし、だからこそ怒らせるわけにはいかなかったのに。
「……わかった。ミツキ、帰って良いから」
彼は感情のない声でそう言って、森の奥へと歩き出す。
「ち、ちょっと待ってくれ!私が悪かった!タイ…」
その瞬間、正面から一際強い突風が吹いてきて、思わず私は顔を伏せた。
「う……!?」
すぐに顔を上げた、それなのに、私の視界からタイチの姿は消えていた。
「た…タイチ!?」
そこは、森の中でも比較的見通しのいい場所だった。
それに、周りの木々は風で簡単にしなるほど細いものばかりで、大の大人が隠れられるようなものでもない。
それなのに、一瞬のうちに彼は消えた。
「タイチ!どこだ!私が悪かった、謝罪ならいくらでもする!タイチ!どこに行ったんだタイチ!」
小さいとはいえ森は森。
探そうにも、手がかりも道具もなにもない状態では自分が迷わないようにするのが精一杯だった。
「タイチ…」
そして結局。その日は再びタイチと出会うことはなかった。
作品名:気流によって桶屋が儲かるための共同研究 作家名:泡沫 煙