WishⅡ ~ 高校2年生 ~
隣に居る妻が、腕を掴んでくる。涙を流しながら弾いている奏を止められずに、腕を掴んだまま震えているのだ。その心中を察し、夫であり父である自分が止めようと手を伸ばした。
「奏。やめなさい」
怒鳴っては逆効果だと思い、あえて静かに言う。が、
「いやだ!」
首を振り、激しく拒否する。
「奏!」
“秋桜の丘”には合わない激しい音で、奏の細い指が鍵盤を叩き続ける。
そして、曲が中盤にかかった時、事は起きた。流れる涙を拭う事すらせずに、
「やめなさい!」
止める両親の伸びてくる手を激しく首を振って拒否。
「平気だっ……」
その瞬間、鍵盤の上の手が……止まった。そのまま、膝を抱え込むように丸くなって椅子からずり落ちる。
「奏っ!!」
両親が倒れた奏に駆け寄りそのまま抱き抱える。
「だから、やめなさいと……」
囁くように戒めるが、そんな父の腕の中で奏が弱々しく首を振った。
「……嘘……じゃない……だ。……ほんと、に……弾け……」
喘ぐような息の中、必死に訴えるその瞳を見て、夫婦で話し合った。
“弾けた”“弾けない”は問題ではない。この一年、生気を失ったかのように過ごしていた一人息子が、ここ数日、本当に楽しそうに笑っていた。残り少ない人生、笑って生きていけるなら、少し位のわがままには目を瞑るつもりだ。病気の事をきちんと話して、それでも息子の傍にいてやって欲しいと“二人”にお願いしようと決めた。余計な手を回したりすると、息子が傷付くかもしれない。だから……息子には、内緒で……。
――――――――――――
「あなた!」
家に到着し車から下りた妻が、顔色を変えて振り返った。かすかに聴こえるピアノの音。
「奏の音よ!!」
止めた車もそのままに、駆け出す妻の後を慌てて追う。
玄関……の鍵が開いていた。おかしいとは思うが、家に入る。玄関先に革靴が二足。思ったより早く“二人”が到着したのだと気付いた。響く曲は“秋桜の丘”。ピアノはリビングだ。妻と並んでリビングへと急ぐ。
「かな……」
リビング入口で、飛び出そうとした妻を引き止めた。
昨夜とは打って変わった優しい調。ピアノの脇にくっ付いている少年が“航くん”だろうか。奏より少し小柄な子だ。……とすると、テーブルにいるのが“慎太郎くん”。ピアノにいる二人をまるで守っているかのように、微笑みながら見詰めている。
と、テーブルにいる少年が振り返った……。
何やら背後からの気配を感じて慎太郎が振り返った時、リビング入口に大人が二人、顔色を変えて立っていた。一人は以前“桜林祭”で見た事のある藤森先生だ。とすると、その隣にいるのはそのご主人……。つまり、奏の両親という事になる。ピアノの方を見ると、航も奏も両親の帰宅に気付いた様子はなく、
「奏! こないだ、音楽の授業で聴いた曲、できる?」
「勿論!」
航のウキウキ声と奏の跳ねるような返事が聞こえた。
「あの子ったら!」
止めようとする藤森母を言葉もなく腕を伸ばして止める藤森父。そして、慎太郎が挨拶をしようと席を立とうと椅子を引いた。が、それも、口元に人差し指を立てて片手で制されてしまった。
「ショパンのポロネーズ第六番・変イ長調“英雄”……。奏の得意な曲のひとつだ」
小さな声で頷きながら藤森父が慎太郎の向かいに座り、その隣に藤森母が座った。
「……すみません。熱が下がったばかりなのに……」
藤森両親の……いや、藤森母の顔色を伺いながら藤森父の小声につられて、つい慎太郎も小声になる。
「熱?」
慎太郎の言葉に首を傾げた藤森父が、向かい側から慎太郎に詰め寄る。
「あの子が……そう言ったのかい?」
「は、はい」
「熱だなんて……。あの子……」
両手を口にあて、藤森母が奏を振り返った。
「熱……じゃないんですか?」
「熱どころか、発……」
言おうとした藤森母の口を藤森父の人差し指が塞ぐ。が、“発”の発音で慎太郎は“発作”だと気付いた。
「あいつ、発作起したんですか!?」
思わず大声になってしまうが、ピアノの音が慎太郎の声を掻き消した。聞こえたのは、藤森両親だけだ。そして、今度は藤森父が気付く。
「慎太郎くん」
「はい」
「今、“発作”って……」
どこまで知っているのかと問い掛ける藤森父に慎太郎が頷いた。
「藤森本人から聞きました」
驚く両親に昨日聞いた事を話す慎太郎。
「……って言われて」
「それで、返事は?」
「OKです。……てか、既に友達のつもりだったんですけど」
そう言ってリビング奥の二人に視線を戻す慎太郎を見て、藤森夫妻が微笑んだ。
「私達がしようとしていた事を奏が自分でやった、という事だな」
「えぇ……」
親が手を出さなくても、ちゃんと自分で友達を探し当てたという事だと夫妻が頷き合う。
「凄いなぁ! 授業のCDよか、全然音きれいやん!」
奏の演奏が終わり航が手を叩きながら、
「なぁ、シンタ……ロ……」
振り返って驚く。
「あ! えと……えーと……。お、おじゃましてます!!」
ゼンマイ仕掛の人形みたくピョコッと航が頭を下げ、そのまま急いで慎太郎の横へと移動。三人の様子を見て、既に話が終わったのだと察する。
「……なんやったん?」
小声で慎太郎を突付くと、
「藤森をよろしく、ってさ」
「な〜んや!」
安心したように声を出し、慎太郎の隣の椅子へとへたり込む。
「てっきり、俺の所為でなんかあって、もう会わんといてくれ!って言われるんやと思た……」
去年、航が倒れた時に、航の祖父母が慎太郎に言った事。それを言われるのだと思っていたのだ。
一方、“俺の所為でなんかあって”の言葉に反応する奏。両親をチラリと見ると、何も言わず……何か言いたげに奏を見詰めている。
「……パパ……。ママ……」
昨日の今日で、また弾いてしまったピアノ。でも、二曲連続で弾いたのに何事も無く演奏し終えた嬉しさに、つい、顔がほころんでくる。昨日言った事は嘘ではないと証明できたのだ。
「演奏も終わった事だから、お茶でもいれましょうね」
藤森母が席を奏に譲り、キッチンへと向かう。てっきり怒られると思っていた奏が、驚きながら父の隣へ座った。
「奏、呼吸は?」
キッチンへと移動した母の代わりに、心配そうに父が訊いてくる。
「平気だよ。全然、大丈夫!」
リサイタルと違って、友人と楽しく弾くというのがリラックスしていいのかもしれない。そんな考えが藤森父の脳裏をよぎる。
「まだ弾けるよ、きっと」
笑顔で言う奏に、
「ホンマ!?」
嬉しそうに同調する航。藤森父の顔に不安が走った。と、同時に、
「いい加減にしろよ、航」
慎太郎の低い声が響く。
「夕べ、熱出してんだぞ。今日無理したら、明日、また休まなきゃならなくなるだろ」
「あ、そっか」
その向かい側で、
「奏も、急にあれこれ弾いたりしたら、身体がびっくりしちゃうでしょ?」
みんなに紅茶を配りながら藤森母が奏を戒める。そんな母の笑顔を見て奏が肩を落とすが、
「明日、学校へ行けなくなっちゃうわよ」
の一言で驚いて両親の顔を交互に見た。
「……行って……いいの?」
「元気なんだったら、行くのが当たり前じゃないのか?」
作品名:WishⅡ ~ 高校2年生 ~ 作家名:竹本 緒