金色の鷲子
菊之介は七条大橋を渡り鴨川を越えて逃げ切ると、中天に漂う淀君を見上げた。矢継ぎ早に玄武と白虎へ指示を与えている。その燃え盛る赤い目と口に、青龍を滅ぼしたことへの怒りを恐怖で僧侶達に購わせようとする淀君の残虐な微笑が浮かんでいた。
淀君の指先から飛び出た火珠が大文字山の火床に飛び込む。しかし、周りの薄に引火した火は、すぐに如意ヶ岳全体を火の海にした。
――大の字を書くつもりであったのに、無粋であったか
淀君が袖で口を隠し軽く笑った。
猛火がまるで自分の意思を持っているかの如く洛東を拡がって行く。街や丘を舐めつくす劫火の下には、叫喚の内に燃え焦がれる多くの僧侶と逃げ遅れた無辜の民がいた。
そして、さらに白虎の鋭い爪と岩山のような重量で圧殺する玄武によって東山連山の形が変わろうとしている。護摩壇は全て跡形もなく破壊されたようだ。
青龍を先に入滅させたのは卓見だったかもしれない。菊之介は逃げながら胸を撫で下ろした。
陰陽師と同様、調伏の護摩行も淀君の力を封じることができなかったのだ。
そのことで菊之介の心に大きな衝撃が走った。
「まだ地獄焔を撃っちゃいない。このままじゃ………」
――四郎様が、危ない!
菊之介は四郎のいる南の巨椋池へ向けて走った。淀君が地獄焔を東山に放ってないのは、明らかに南の朱雀を襲うために力を温存しているのだ。一万数千の聖霊と朱雀を守る天草四郎も玄武と白虎を従えた淀君には抗えないかもしれない。
「四郎様、逃げて! 早くお逃げください」
菊之介は観月橋の上で絶叫した。
《離れなさい、戻るのです、菊之介さん! あなたは泰蔵様へお知らせする任務があるはず》
覚悟した天草四郎は胸の前で十字を切った。聖霊達の「オラショ」を唱える声が大きくなる。
婉然とした笑みを湛える淀君の放った地獄焔が、四郎を襲った。大激震が襲い一部の防護壁が破れ、五千の聖霊が忽ち消えた。守護されている朱雀が猛り吼える。まだ傷の癒えていない身を鞭打って飛び立とうと朱雀がもがき苦しんだ。
四郎は闘いを宥める言葉を朱雀へ掛け続けたが、再度地獄焔を浴びればおそらく防護壁は消失してしまうに違いない。
粗方東山連峰を破壊しつくした白虎が戻り、避けた防護壁に巨大な爪を引っ掛けた。さらに玄武がその重さを利用して覆いかぶさる。再び何体かの聖霊が霧散していった。まさに祈るしか術を持たない聖霊達の力が潰えそうになった時だった。
淀君のものとは別の熱風が東の空から吹き抜けた。
時ならぬ風に白虎と玄武が振り返ると、遙か東山連山の後方上空に真っ赤な鳥が羽ばたいている。
――おのれ! 小童。自らその身を現すとは、良き心掛けじゃ。国松の敵、かかって参れ!
淀君がすっと都の中央辺りまで躍り出ると白虎と玄武が一旦四郎の防護壁から離れて淀君の後に従った。
鷹がさっと翼を一振りし、淀君へ向かって飛んだ。
――馬鹿め、死にたいと見ゆる。おぬしの最期ぞ!
柳眉を逆立てた淀君が腰を沈め、地獄焔を放つ態勢に入ると、白虎と玄武も朱雀を守る四郎から離れ、鷹に対して牙を研いだ。
地獄焔が撃たれる寸前、淀君の横から激烈な熱風が襲った。その風を切り裂くように防護されていた傷だらけの朱雀が淀君を火達磨にして薙ぎ倒し、舞い上がって行く。
北の鹿苑寺まで吹き落された淀君は、金閣と呼ばれる舎利殿の頂上で黄金の鳳凰に足を掛け、改めて地獄焔を放った。
鷹を追尾する焔火が、庇うように飛び込んだ朱雀の翼に命中した。火焔渦巻く中、朱雀が悲鳴に似た咆哮を上げ、絡みつく淀君の長い黒髪に抗い続ける。鋼鉄よりも硬い髪に絞め上げられ屈従する寸前、朱雀の魂魄は鷹の体内へ逃げ切り、そのまま急上昇する鷹を加速させた。
――逃がさぬ!
髪を逆立てた淀君が鷹を追ってこけら葺きの屋根を蹴った。その速さに炎上していた着物の火が消えていく。玄武と白虎が遅れまいと後を追った。
京の守り神と一体化した鷹は、さらに強力な朱雀となり、その速さを増した。二つの巨大な地獄焔を連続で撃った淀の霊力が若干弱まっている。玄武の背に移り、英気を養いながら巨大な白虎の体を通常の虎に戻させて加速させた。
しかし、その後を追う四郎の作る極光の障壁が、白虎の速度に制動をかけた。
そして、鷹は琵琶湖の上空で淀君を振り切った。
――小母さん、関ヶ原で待ってるからね
鷹の残した声だけが湖上に漂っていた。
二筋の光が関ヶ原へ向かっている。
「間にあったね、四郎の兄ちゃん」
《私も天密の大阿闍梨様がご決意されたのを聞いてこれしかないと思いました。朱雀神も鷹さんと融合できて喜んでいますよ》
菊之介を乗せた聖霊が二人に追いついた。聖霊は銀六とお菊、それに仙吉の母親だった。鷹を見て懐かしそうに手を振った。
「何だ、四郎様と鷹さんは最初から話ができてたんですかい? 心配して損した。先に言っといてくださいましよ」
《すみません、淀殿に気取られたくなかったものですから》
「でもこれで鷹さんの朱雀もあの化け物といい勝負ができるんじゃないんですかい?」
「まだだよ。あの小母さんも自分の出す火焔より小さいものでは火傷もしないさ」
がっかりした菊之介であったがそれでも何か閃いたように顔を上げた。
「小頭からお聞きしましたよ。何でも鷹さんは、あの有名な静御前の息子さんだっていうじゃありやせんか。天狗にゃ使えねぇ水遁の術も使えるって仰ってましたよ。やっぱ火には水でしょうが」
それには鷹だけでなく四郎や聖霊達も苦笑いを隠さなかった。
「大雨降らしたって仕方ないだろ、水も滴る菊之介姉さん。それより早く戻ろうよ。おいら疲れちまった。体を休めながら朱雀神をおいらに馴染ませないといけない」
《そうですね。能登守様と競合しないようにしなければいけませんね》
努めて明るく話そうとする四郎であったが、勘の鈍い鷹でさえその声音に潜む暗さに気づいていた。菊之介も姿は見えないが四郎の声がする方を見上げる。
口には出さないが四郎の心に暗い影を落としている憂慮すべき問題があった。
今夜消された聖霊五千体が再生するには時間がかかりすぎるだろう。さらに白虎と玄武の攻撃に傷ついた聖霊も少なくない。すでに関門海峡上で淀君から地獄の火を浴び霧散した聖霊三千体がまだ回復していない。今、防護壁を作るために「オラショ」を唱えられる聖霊は一万に満たなくなっている。我が身と聖霊全て失っても淀君の地獄焔を全て受け切れる自信がなかった。
琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島の結界が破壊された。
神主と巫女の死骸を真田大助が真田忍者等を指揮し本殿の外へ運び出した。結界を張る弁才天を白虎の爪が八つ裂きにした時、巻き添えになった犠牲者である。
淀君はひとまず都久夫須麻神社本殿で体を休めることにした。
本殿の外は、猿飛佐助を始めとした由利鎌之助、海野六郎、根津甚八、望月六郎等真田十勇士の生き残りと体の回復した神谷忠左衛門が警護に就いた。
この本殿は、豊臣秀吉が寄進した伏見桃山城の束力使殿を移転したもので黒漆塗りの桂長押には金蒔絵襖が施され要所には精巧な金の金具が使用されている。柱、欄間の絢爛さは大坂城内を彷彿させた。